はねゆきノート

片づけノート/お仕事ノート/読書ノート/その他もろもろ

近況~聞かなかったことにはできない言葉

今年も残りわずかとなりました…。
とりあえず本日夕方まで仕事があって、最終の飛行機で帰省してきています。ようやく家に着きそう。

さて年末は、仕事の方で思いがけず大炎上した案件があり、大変でした。
顧客に会社の方針を伝えなければならず、しかもかなり会社都合で先方に対して心ない方針であったので…私個人としてもあまりにひどい内容に思えて納得できず、回避するためにいろいろと手を尽くしはしたのですが、言うて何の権限もないわけで。
だからまぁ、炎上することは分かっていましたが…
「聞いてんのか、この人でなし!訴えるからね!」と延々小一時間罵られる大クレームに発展しました。

まぁ、訴えるから、が効いたのか会社の上の人が方針転換するみたいな流れになりましたけど。
この件でかなりいろんな認識が変わりました。


「聞かなかったことにはできない」

まず一つ分かったことは、人間には「聞かなかったことにはできない」言葉がある、ということです。
私は普段から上司に罵られ慣れており、人格攻撃くらいでいちいち傷つかないタフなハートの持ち主だと自負をしておりました。
また、様々な自己啓発本などから「身に起きた出来事によって傷つくのではなく、自らの反応によって傷つくのだ」などの理論も学んでおり、今回も「こんなことで傷つくのではない」と自分に言い聞かせておりました。

まぁでも、それは無理でしたわ。
上司の言葉は確かに厳しいけれど、気持ちとしては愛情に発しているわけで。でもその顧客は、私に怒り、憎悪し、それをぶつける権利を持っていて(まぁ、完全にこっちが非道な話ですので)、私はただただ聞いて受け入れるしかなかった。

精神の問題ではないんです。身体なんです。
向けられた憎悪が、怒りが、身体の中で残響してるんです。夜中に目が覚めて眠れないし、仕事をしていても息が苦しくなる。
「人でなし」という言葉が、まだ身体に残っている。
それは、聞かなかったことにはできない。

そして、そのような「繊細な反応」をする自分自身も、ひどく許せなくて。
人でなしって言われたくらいで、私はこんなふうになるのか。そんな脆弱な人間なのかと。世の中には、クレームを処理する専門の方もいらっしゃるくらいで、私なんか一回怒鳴られただけなのに…甘ったれだなぁって。

私にとって「つらいこと」って、お客さんから罵られたっていうその程度なのかって。


人でなしは誰なのか

ちなみに当の決定権者には怒られました。
「訴えるなんて言われるのはお前の人望がないからだ」とのこと(人でなしとまで言われたことは報告しませんでした)。
これについては深く考えないようにしようと思っています。…気が遠くなるので。
確かに普段から人望があれば、そこまで罵倒はされなかったかもしれませんね。
それにしてもね…
人でなしって、あなた自分で罵られればよかったのにね、ってどうしても思ってしまいます。子どもですね。


ということで自分に対しても、会社に対しても、失意のうちに年の瀬を迎えることとなりました。
でも何だか、失意の向こうに、今まで全然見えてなかった何かが見えそうな気配もするんですよね。
自分としては、つらいことや理不尽なことに打ち負かされるのではなく、乗り越えて強くなっていく人間でありたいのです。

ヘビーな感じですみません。
どうかよいお年を。

【読書】『反応しない練習』読書メモ

最近ホントに怒りっぽくて反省してます。
(いや、あんまりしてません 笑)

たとえば先日、こんなことがありました。

FMラジオの匿名の投稿コーナーで、
「先輩が細かいミスでいちいちうるさいんです!自分だってミスをたくさんしてるのに謝りもしないで人間性を疑います!」
みたいな愚痴(?)が読まれたんですが、それ聞いて一瞬で沸騰しちゃって。

これウチの新人くんじゃない?
あいつが私の悪口言ってんじゃない?
って。

…いや内容が図星だから怒っているんだろうとかそういうことじゃなくてそりゃ私だって自分の人間性については十分疑っていますが一方的に言われる筋合いないわけですよ言われたからにはこちらにも100個くらい言い返したいことがあります細かいミスっていうけどその認識が間違ってるっていうかスタンスがそもそもおかしくてしかもすぐ仕事多すぎるのやめたいの言いますけどねホント何にもしてないく

…って際限なく腹が立ってくるわけですよ。


まぁでも我ながらちょっと病んでるなと思います。ダークサイドにおちてますねー
だって別に彼の投稿とは限りませんしね、普通に考えて。
なのに勝手に決めつけて、それに対して猛然と腹が立っちゃうわけですから。
しかも一旦そうだと思ってしまうと、冷静になろうとしてもなかなか抜け出せなくてですね。

心を乱すな!抑えることを学べ!
ってなもんですよねー


さて最近こんな本を読みまして、とても参考になりましたので、自分のメモがてら紹介します。

この本の要旨をざっくり一言で言うと、「『反応』せず『理解』することで悩みを解決していく」ということです。
個人的には第1章がすっと入ってこないで、理解するまでに何度か読み返した部分もありました。おそらく先に、この本のキーワードである「反応」「理解」がどんなことを指しているのかつかんでおくと、分かりやすいかなーと思います。

まず「反応」とは。

たとえば、朝の通勤ラッシュで「今日も混んでいるな」とゲンナリする。これは、心を憂鬱にさせる反応です。心ない相手の態度にイラッとする。これは、怒りを生む反応です。(中略)人と会うときも、仕事をしているときも、外を歩いているときもー心は、いつも反応しています。

この反応が悩みの原因なので、ムダな反応を減らしていこう!というのがこの本の主張です。

なんだか、『7つの習慣』の、
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのだ。

にちょっと似てますね。

確かに、カーラジオの投稿コーナーでどんなに身に覚えのある(笑)悪口を言われても、それそのこと自体によって傷つけられるわけではないですからね。
「これはウチの後輩に違いない!」と決めつけ、「何だよ一方的に言いたい放題言いやがって!」と沸騰し、あとは「図星だから怒っているんだとかそういう問題じゃない」「そもそも自分の人間性の問題についてはよく認識していて、あんたごときにとやかく言われたくはない」などとどんどん自分で燃料を投下していくわけです。
実際には誰も何も言っていないところから、「心の反応」だけで、ここまで怒り狂っちゃうんだから…業が深いですね。

一方「正しい理解」とは、
「自分はこう考える」という判断や、解釈や、ものの見方をいっさい差し引いて、「ある」ものを「ある」とだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きの「ニュートラル」な目で、物事を見すえることだけを意味しています。
「正しい理解」に「反応」はありません。ただ見ているだけです。

とのこと。難しいことをいっている…。
本には正しい理解のための具体的なトレーニング方法なども書いてありました。
ぜひ、読んでみてください。


他にも、「妄想」の話が参考になりました。現実を悪く解釈した判断や、過去の記憶さえも、脳内の妄想にすぎない、という話。
これについては、
「妄想は妄想にすぎない」
「妄想には際限がないし、根拠もない」
「わたしはこれ以上、妄想を追いかけない」という立場に立ってしまうのです。
というのが著者のアドバイスでした。

あとは承認欲求の話とかね。
カーラジオの投稿から始まった新人くんへの怒りだって、元を正せば自分自身の承認欲求に着地する気がして。

自分自身は、新人の頃から打ち続く人格否定と罵倒の中、「仕事やめたい」どころか、「遺書を書いて死んでやりたい」とまで思いながらも、心を強くして耐え抜いてきた、と思います。
なのに新人くんは、別に大してひどいこと言われてないのに「やめたい」の何のと弱音を吐き、周りもわたわたして(私には厳しい一辺倒なのに)「君とはタイプが違うのだから、優しく接しないとダメだ」などと気を使う、という…ちょっと理不尽だなぁと思うわけです。だからムカつくわけです。
つまり、平たく言えば、

タイプがちがう?
耐えてきた私の努力は何だったんだよ!
私をもっと認めて!
私にも優しくしてよ!

という、言ってしまえば「承認欲求」なわけで。
そういうのもすべて「妄想」であるので、目を閉じて、妄想であることを実感するとよい、とのことでした。

ゆうても難しいことですね。
あまり怒らないようにしたいです。

以上はねゆきでした。




仕事をやめたい日に考えるべきこと

ブログを始めて早3ヶ月になります。

ほぼ10PV/日以下の零細ブログですが、一応いちばん見られているのはこの記事のようです。
「仕事 やめたい」「仕事 できない 死にたい」というキーワードで検索してくる人が結構いてびっくり。
 

…ところで先日、別件のライティングワークのお題で「転職する前に整理するべきポイント」というのがありました。
当方こそ年中「仕事やめたい」病なのですが、自戒を込めて書いてみました。
ポイントだけざっくり、こちらにも記しておきたいと思います。題して「仕事をやめたい日に考えるべきこと」。
特にいま、猛烈に仕事やめたい気分なので!もう、ホントに自戒を込めて!(ちょっと精神論寄りです)
 
 

現在の不満や問題を解決しよう

少なくとも解決しようとしよう、という話。
現職でうまくいかないことや不満があって、そのために仕事をやめたい…という人は多いと思います(私を含め)。
しかし、うまくいかない状況に対して何もしないままやめてしまうのは、やはり「逃げ」と言われても仕方ないのかな、と。
鬱病などの場合は別ですが、とにかく、どうしても後ろ向きな判断になってしまいますよねぇ。
たとえば私自身がやめたい原因を突き詰めれば、半分は人間関係の問題なわけです(ちなみに残り半分は接客・営業が苦手だから)。私がこの問題を抱えたまま転職したところで、転職先でも私の周囲に泥沼的な人間関係が展開されることは目に見えています(接客・営業も突き詰めれば対顧客の人間関係の問題と言えましょう)。どんな転職をしたとしても、そこに人はいるのですから。
つまり、最初から泥沼があるのではなく、私の行く先に泥沼ができるんです…業が深いですね。
 
環境からは逃げられても、自分からは逃げられないですから。
 
不満や問題があるなら、仕事をやめるのは解決するために最善を尽くしてから。
その方が経験にもなり、前向きな転職になる気がします。自戒自戒。

 

転職理由を正しく見つめよう

仕事をやめたい理由を曖昧なままにしない、という話。
たとえば残業が多すぎるという理由で転職を考える場合には、日数・曜日・手当などどんな条件でどれくらいなら残業してもよいと思えたのか、逆にどこからが許せなくて転職を決意するに至ったのか、という限界値を見きわめておく、とかですね。
漠とした不安とか、転職で解決できる見込みは低いわけで(だって漠としてるから)転職理由を明確にしておくことで、解決への道すじが立つ、と思います。
 

最後に

完全に自戒ではありますが、頭に血が上ったときに大事なことを判断するのはよくないなぁ、と思います。
私もこんなんですけれど、キレた勢いで「もう結構です!じゃ、今日で仕事やめます!」と言わないようにだけは気をつけていますよ(言いかねない)
 
全然関係ないですが、最近こちらの本を読んで参考になりました。
また今度感想を書きます。

 反応しない練習  あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

 以上はねゆきでした。

稚内旅行の記憶、あるいは『星の巡礼』

今週のお題「今年見に行ってよかったもの」

 

今週のお題:「今年見に行ってよかったもの」について書こうと思うのですが、その前に。

パウロ・コエーリョ星の巡礼』を読みました。

星の巡礼 (角川文庫)

星の巡礼 (角川文庫)

 

 教団の最後の試験に落第し、「剣」を手にすることができなかったパウロ。

パウロは自分の剣を手にするため、案内人ペトラスに導かれ、サンチャゴに続くスペインの巡礼の道を旅していきます。道中、人生の道しるべとなる実習や、恐ろしい敵との戦いに立ち向かいながら、パウロは人生の偉大な秘密について学んでいきます。

 

現代日本の感覚からすると多分に神秘主義的な部分も多いですが、私は好きでした。

失意と挫折のうちに旅が始まる、というのが特に。自分の今の生活も、ある意味では、失意と挫折のうちに始まった旅の途中、のような気がしています。

 

 *****

旅といえば、今年はシルバーウィークに放浪旅をしました。稚内・利尻・礼文を回りました。3日前くらいに思いつきまして、急遽安宿を取って。通勤の時に使っているショルダーバッグに下着の替えと現金とスマホと本を入れて。2泊3日した気がします。

稚内で何をしたかというと、観光は特にしませんでした。

その代わりレンタサイクルでママチャリを借りて、稚内駅から宗谷岬まで往復しました。

片道30km、往復で60kmあって、午後に出発して夕方に宗谷岬について、夜中に何とか稚内に帰りつきました。6時間かかった。死ぬかと思いました。

一応写真も撮ったの。

 

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 地面が広い…

普段運動をしないので、その日の夜から脚に激痛が走り、立ち上がることも座ることもできないありさまで…ちなみに翌日はその状態でフェリーに乗って利尻に行ってまたレンタサイクルで10kmくらい走ったのです。(もちろん突然通勤鞄一つで稚内に行って宗谷岬まで激走するような女は、男性にはあまりもてません。)

 

ちなみにこちらは利尻富士です

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なぜそんなことをしたのか?

…分からない。

就職したときから私の生活は「失意と挫折のうちに始まった旅」のような様相を呈してきたわけですが、それくらいの頃から一人旅を好むようになり、ふらりと出かけてはそういう突拍子もないことをするようになりました。旅をするといっても絶対に観光バスなんか乗りません。計画もほとんど立てません。旅先で、直感に任せて、自分で決めた他人には到底理解できないような試練に挑むことが好きなのです。

 

どちらかというと、旅先では、身体を酷使したり(6時間自転車をこぎ続けるとか)五感を研ぎ澄ませたりすることを意識します。

それは、普段あまりに「頭でっかち」なので、バランスをとるためにそうするのだと思います。何というんでしょうか、「身体の声を聴く」というんでしょうか。

何もない原野の一本道を単調にこぎ続ける。脚はすぐに痛くなり、変な前傾姿勢で延々ママチャリをこぐ。雨が降る。風が吹く。夜になる。ライトをつけるとペダルは重くなる。紫色の雷が、低木で覆われた丘を照らす。市街はなかなか見えない。根源的な恐怖を感じる。ようやく市街にたどり着く。そこには安堵も達成感もなく、驚くほどあっけない。ただ疲れ果てている。脚の痛みだけがある。

その間、普段ぐだぐだと悩んでいるような、人間関係のことや仕事のこと、人生のことは脇に追いやられる。そんな経験をしてようやく、身体と精神のバランスを取り戻して「休暇」になった、と思えるようなんですよ。

 

それが今年の旅の思い出でした。見てよかった場所?宗谷岬には何もなかったですね。

誰か侍の像がありました。よく覚えていませんが。

自転車をこいでいるあいだ、私の左側には常に海があり、右側には常に丘がありました。

そんな島嶼部の沿岸を延々走っていると、身体の左右の感覚に違和感が出てきます(左側は海、右側が丘だと、何だか右側が常に重いんですよね)。帰ってもしばらく、そんなアンバランスな左右感覚が残っていました。その感覚は今でも思い出すことができます。

あとは脚が痛かったです。

 

*****

話を『星の巡礼』に戻します。

読んでいて印象的だったのは、〈敵〉に関する部分でしょうか(あまりに印象的すぎてモスバーガーのソースをこぼしました)

 

「敵は、われわれを傷つけることができると知っているからこそ戦いに参加する。そして彼は、われわれが誇りを持って、ここは自分の一番強いところだと思っているところを傷つける。戦っている間、われわれは常に自分の最も弱いところを守ろうとする。そして、敵は無防備な場所、つまり、一番自信を持っている場所を攻撃してくる。そして、われわれは決して許すべきではないことを許してしまって、結局負けてしまう。われわれが敵に、どのように戦えばよいか、選ばせてしまうのだ」(p218)

 

自分の強いところだと思っているところを攻撃されると、崩れてしまって、許すべきでないことを許してしまう…というのは、非常に鋭い洞察だと思います。

 

「敵はわれわれを成長させ、われわれをみがく」(p219)

 

私たちが旅に出るのは、<敵>と出会うためだ、ともいえるかもしれません。

もちろん日常生活を送っていれば、探しに出るまでもなく<敵>は自分の中に容易に見つかるものです。しかしそれと改めて出遭い直すために、わざわざJRで4~5時間をかけて旅をする。私は旅を好みます。旅行記も好むし『星の巡礼』も好きでした。

 

旅を終えて日常に戻れば、未着手の問題がまるまま横たわっていて、格闘の日々に舞い戻ります。旅によって何かが変わっただとか、進歩しただとか、成長しただとかはありません。ただ少し、バランスが変わっただけです。

そこが、小説の主人公とは異なるところです。

 

以上はねゆきでした。

<小学校低学年向け>勉強で大事なことは

この前、中学受験向けのクラスで、小学3年生に「勉強で大事なことって何ですか」と聞かれました。
需要があるか分かりませんが、「それはね…」とお答えした内容を書いてみます。


自分で○つけができますか?

小学3年生くらいのお子さんだと、自分で宿題の○つけができない子も多いです。その場合、お母さんが○つけをしてあげているのですが、成績のいい子・伸びる子は自分で○つけしている印象です。
これは中学生になっても同じで、自分のアウトプット(解いた問題)を検証する習慣のない子は伸び悩む傾向があります。
というか、自分で○つけをしない=「解いた問題が合っているかどうかには興味がない」という時点で、受験勉強はちと厳しいものがありますよ。


自分で「解き直し」ができますか?

もっといえば、自分で○つけをして、間違った問題の直しをできるかどうか。テストの後の解き直しができるかどうか、は大きいです。解き直しても分からないところがあるのは仕方ないのですが、そもそも自分で検証する姿勢があるかどうか、というところです。
高学年になって伸び悩む子は、「間違えた問題を解き直す」という発想がありません。
そういう子は、受験直前になっても学齢不相応な稚拙な記述をしたりします(呼び出しでフォローしますが、本人も私も泣けます)。
というか、日本語の書き言葉が身についていない。
それは読書量ももちろんですが、普段から模範解答を見て、書き方(文体も内容も)を真似て書くということをしていないので、話し言葉の延長のような稚拙な表現をするのだと仮説を立てています。やっぱ解き直しは大事。


自分から勉強をしてますか?

要は「自学力」ということだと思います。
中学受験で○つけや解き直しに親御さんが介入すると、だいたいバトルになります。分からないところを教えるときもつい感情的になって、親御さんが先に疲弊してしまいます。勉強しなさい、と言わないとしない子は、高校受験はともかく中学受験では厳しい感じがします。やっぱり、結局は自学力のある子が勝つです。
身も蓋もないことですが、執念をもってインプットをし、それについてのアウトプットに対して徹底的検証を加え、さらにフィードバックしてインプットして…の果てしない繰り返しを「勉強」と申します。
成績の上がらない子(特に中2まで)はインプットに「執念」が足りず、アウトプットに「検証」が足りません。自学力は大事。


ちょっと生意気路線でしたらすみません。
誰しも仕事に対して、愛着と、思い入れと、誇りを持つ権利はあります。もちろん経験から学ぶこともあります。専門的見地というものがあり、プロ意識というものがある。それは仕事の質を高めこそすれ、邪魔にはならない…と私は思うんですけどね(何だか言い訳がましいですね笑)
需要があればまた書きます。

以上はねゆきでした


休日出勤の思想

よく「自分の頭で考えろ」「自分の考えを持て」というけれど、なかなか難しい。

もちろん好き嫌いは誰にでもある。たとえば私は、休日出勤が「嫌い」。
でも、好き嫌いを超えて行動することもある。破綻するのが目に見えていて、無視できないから、嫌いだけど、休日出勤する。そこには「破綻するのが目に見えているのに無視して休んではいけない。自分の休みより、全体の動きを優先しなければならない」という「思想」があるようにも見える。
けれどよくよく考えてみれば、それがただの惰性ではなく、思想に基づくものであるとどうして言い切れるだろう?
ちなみに、休日出勤したら案の定破綻していて、「休日出勤だとか関係ない、来たからにはもっと何とかしろよ!」とお叱りを受けた。たぶん彼は最初から、私が休日出勤するだろうということも計算に入れて勤務を組んでいるのだ。まさか見捨てて休むとは思っていない。
そのように上司の計算に入ってしまうようなことがらについて、「思想」と呼べるかどうかは非常に疑わしい。「思想的にあいつは最後には来て何とかするだろう、休みでも…」という独白は成立するのかどうか。むしろ「性格」と呼ぶべきかもしれない。となるとやはり、惰性に近い何ものか、なのだろう。
(ちなみに、休んだら休んだで、彼は烈火のごとく怒り狂ったことだろう。結局私には選択肢などなかったのだ。選択肢のないことがらについて、「思想」と呼べるかもかなり疑わしい)

話がずれた。
とにかく、自分の考え、思想的ななにがしかを持つことは、とても難しいのだ。
ただ好き嫌いがあり、惰性かも知れない行動がある。その中で、他人や、日々生起するものごとに対して違和感を感じることもある。そういった感覚的なものを、見逃すことなく掘り下げていって、その根本になにかの思想が種芋みたいにくっついていないか、逐一確認するしかないのだろう。


最近、会社の上層部が好んで引用する言葉。

「努力する者は希望を語り、怠ける者は不満を語る」

作家の井上靖の言葉だそうである。
この言葉じたいは、真理をついていると思う。確かに、仕事ができない人は、周りへの不満を言うものだから。
しかし、これを役員が従業員に対して言うことについて、少しだけ違和感がある。
確かに不満はある。言いもしよう。一番は休日出勤を前提として勤務が組まれること。
現状、うちの会社で先の言葉は、

「文句を言わずに、休まず働け。」

と同じ意味になってしまう。

本当に嫌なやつらだ、と思う。
しかし、「全体を優先し、必要とあらば休日に出勤するのは社員として当然である(したがって不満を持つものは怠けている)」というのは、間違いなく一つの「思想」である。心の底から信じているのかもしれないし、ただ信じているふりをして利用している方便なのかもしれない。思想とは、好悪や感情から切り離され、他人に惰性以上の行動を強いることができる、本当に使い勝手のよいものなのだ、と思う。
思想がそういったものであるならば、私は外付けの道具だて以上には、持っていない。深いところをえぐってみても見つからないわけだ。
思想を持たない私は、逆らえないどころか、染められつつさえあるのだ。




【マンガ】高野苺『orange』~多くの後悔をして、ほんの小さな喜びを得る

漫画『orange』を読みました。

舞台は長野県松本市。高校生の菜穂のもとに、10年後の自分から手紙が届きます。
手紙には、転校生の翔が事故で死んでしまうことや、未来に後悔しないため・翔を救うためにするべきことが書いてあり、菜穂は戸惑いながらも勇気を出して翔と向き合っていきます。

では、感想戦です。

orange(1) (アクションコミックス)

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当たり前のことを言いますが

未来の自分から、後悔しないためには、ああしなさい、こうしなさい、という指示の手紙が送られてきて、少なくとも手紙の効力を信じ始めてからは、基本的に手紙の言う通りにやっていくわけです。
そして、裏目に出ることもあるけれど、大体は手紙のおかげでうまくいく。それで結局手紙に依存し、言う通りにしていく。
そこに今の主人公の意志や成長はあまり感じられず、私は少し物足りないなと思ってしまいました。

当たり前のことを言って恐縮ですけれど、人生は一度しか生きられないので当然影もあり、影があるからこそ光が輝くわけです。
決して取り返せない後悔があり、挫折があり、全然思い通りにならないまま、人生は容赦なく続いていきます。それはそれは非効率で不合理で、過去の自分に手紙を送りつけたくなるくらいに(笑)
けれどそのときはそのときで精一杯の自分だったのですし、そうしてたどり着いた現在地にも一片の光はあり、その光は、こうやって生きてこなかったら決して手に出来なかったであろうもの、なのです。
たくさん失敗し、後悔をし、犠牲を払って回り道をして、ほんのささやかな気づきや喜びを得る…というのが本質なのです。

だから「未来からの手紙」という道具だてや、それによって好転していくストーリーが、実人生に比して安っぽく感じられました。
同じ時空ネタだったらこっちの方が好き。

過去の自分に手紙を書くという「慰藉」

一方で、「過去の自分に手紙を書く」という行為には、それなりの慰藉があると思うんですよね。
たとえそれによって何も変わらなかったとしても(だって現実では過去は変えられないのですし)手紙を書くという行為そのものに、かなしみや後悔を少しなりとも癒す力があると思います。
ですから、26歳になった主人公たちは、自分の出した手紙が過去に届いたかどうかすら確認できないけれど、ある程度は過去に決着をつけることができる。
それは読者の慰めでもありますが、何より作者の慰めである、という印象を受けました。
特に根拠はありません。



まぁ、私が16歳の自分に手紙を送りつけたところで大人しく言うことを聞くとは思えません。アホなんだから。
アホだったけど、まぁ、精一杯頑張ってはいた。というか、ポンコツながら10年がむしゃらに頑張ったから、今はそれなりに強くなれた…と、過去の自分を肯定したほうが、精神衛生上よろしいかと。

ぐだくだ(笑)
以上はねゆきでした。