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【読書】内田樹、光岡英稔『生存教室 ディストピアを生き抜くために』

本日から、ゴールデンウィークに入りました。
うちの会社の「正月」とも揶揄される、1年で唯一の大型連休。
1週間まるっとお休みのため、とりあえず実家に帰ってきました。
ノープランですが、本を読んだり、英語の勉強をしたりしながらゆっくり過ごそうと思います。


さて、移動中にこんな本を読みました。

 

生存教室 ディストピアを生き抜くために (集英社新書)

生存教室 ディストピアを生き抜くために (集英社新書)

 

 思想家にして武道家の内田先生と、各界から大注目の武術家・光岡先生の対談本です。
暗殺教室』を入口に、「現代社会をサバイブする」というテーマで繰り広げられる「身体論」「教育論」が対談の中心でした。


特に「ここ1~2世代で日本人の身体(身体観)が大きく変化した」「古い世代の武術が前提としていた身体性のアベレージが変わってしまい、成立しなくなった武術もある」といった話題が印象的でした。
明治初期の米俵1俵が60キロだったそうですが、なぜ60キロになったかというと「誰にとっても肩に担げる持ち運びやすい重さだから」(!)実際、米俵5俵を担ぐ農婦の写真なども出てきます。今では考えられないことですが、それぐらい、身体も身体観も変わってしまった。「同時代のみんなが、これくらいできる」という平均的な身体能力の前提が変わってしまった…っていう話なんですよね。

特に、椅子の上で過ごす時間が長くなったことで、足腰が弱ってしまった…と光岡先生は述べています。


デスクワークには足腰や肚は関係ありません。動かしているのは胸から上だけです。古の時代では普通にあった身体を失っているし、無論足腰や肚は感じられない。とはいっても、やはり生きているわけですから、なにか身体っぽいものがあるのはわかるけれど、それに対してはアクセスする術がわからず、一切無力という感じにしかならない。自分が幽霊のように足腰のない状態になっています。

 

自分が生きて行く上で欠かせない足腰が抜けているから自信も持てず、自身の身体が観えていないゆえに現代人は頭しか使えなくなっています。身体を動かすことなく頭の中だけで辻褄を合わせようとして、他人の意見と自分の意見のすみ分けもできず、他人から得た情報を自らの経験を通さず自分の意見であるかのように勘違いする。他人の言葉で語り、それを自分だと錯覚する。
生きるとはまずは自分一人で現実に向き合えるかどうかが大前提のはずです。


…耳が痛いお言葉。
自分もふだん、頭でっかちだなぁと思うことが多々あるんですよね。
ふと人に向かって口に出した瞬間に、浅はかさ(地に足がついていなさ加減)がわかるような考えや感情、というんでしょうか…
そういうのは、ふだん孤独で、夜や朝、悶々と一人で考えてしまうから、一人よがりだというのもあるし。
一方で、身体をまったく動かさず、頭の中だけで考えたことだから…というのもあると思うんです。
考えたことや思ったことや、もっといえば愛したこと、憎しんだことすべて、地に足がついていなくてバーチャルな感じ。それでも、ちょっと身体を動かして、身体的な苦しみを実感として味わうと、小さな悩みや現実的でない苦しみは吹っ飛ぶ…ということはあると思います。ですから、日ごろ運動をしたり、鍛えたりして、身体性にアクセスする習慣を持っている人が羨ましいです。

 

いやぁ、運動したいなぁ。
以前ホットヨガをかじったこともあるのですが、あまりにできなくて浮いていて(笑)周りの目が気になったので、続かなかったんですよね…
あれもほぼほぼシティガールのファッションと化していますからね。そんなじゃなくてちょっと身体を動かす習慣が身につくような趣味があるといいんですが。


教育論も示唆的でした。

自分で生きていく力を自身の中に見つけることが大切であり、言い換えれば教育とは学ぶ人が有無を言わせない自信をもてるように促すわけですが、それはあくまで本人の中で感覚として得られるもので、強いることはできません。

 

個性に焦点化するというのは教育においてまちがいなくもっとも効率的ですね。


さてさて教育業にかかわって5年目、本当に一人一人を伸ばす指導ができるのか?
個性に焦点化し、長所を伸ばし、苦手は「手入れ」して、自信を持たせられるよう、今年度も頑張ります。

以上はねゆきでした。