【読書】宮下奈都『羊と鋼の森』
宮下奈都『羊と鋼の森』を読みました。
新人ピアノ調律師が、失敗しながらも少しずつ成長していく話です。
- 作者: 宮下奈都
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/09/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
帯に「村上春樹のドライさと湿り気。小川洋子の明るさと不穏、二人の先行作家の魅力を併せ持った作品です」と語られていましたが、うーん、よく分かりませんでした。
確かにピアノの音色に関する情景描写がたくさん出てきて、その表現の豊かさはこの小説の魅力のひとつでありましょう。
秋の、夜、だった時間帯が、だんだん狭く限られていく。(中略)
町の六時は明るいけれど、山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。夜になるのを待って活動を始める山の生きものたちが、すぐその辺りで息を潜めている気配がある。静かで、あたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノから零れてくる。
こんな感じの。
けど個人的には、この小説の最大の魅力は、
「地道な努力をこつこつ続けながら、自分の目指す音色・調律のあり方を探っていく新人調律師の姿」であり、
「調律師としてなかなか思うような結果が出せない中、才能や努力の意味に思いをめぐらしながら、成長していく青年の姿」だと思うのです。
つまり私は、「お仕事小説」として読みました。
たとえばこんな。
「調律って、どうすればうまくなるんでしょう」
ひとりごとだった。席に戻りながら、思わず口に出ていたらしい。
「まず、一万時間だって」
その声にふりむくと、北川さんが僕を見ていた。
「そんなことでも一万時間かければ形になるらしいから。悩むなら、一万時間かけてから悩めばいいの。」
「口にしないだけで、みんなわかってるよ。だけどさ、才能とか、素質とか、考えないよな。考えたってしかたがないんだから。」
ひと呼吸おいて、秋野さんは続けた。
「ただ、やるだけ」
ぞくっとした。秋野さんでさえ、そうなのか。
「才能がなくたって生きていけるんだよ。だけど、どこかで信じてるんだ。一万時間を越えても見えなかった何かが、二万時間をかければ見えるかもしれない。早くに見えることよりも、高く大きく見えることのほうが大事なんじゃないか。」
才能とか、素質とか、考えない。ただ、やるだけ。
才能がなくたって生きていける。一万時間を越えても見えなかった何かが、二万時間をかければ見えるかもしれない。
個人的には、こういう言葉に心を動かされました。
才能とか、素質とか、考えてしまうのはまだ甘いのかもしれません。ただやるだけ。欲しければ求めるだけ、ですから。
好きだとか気持ちがいいだとか、自分の中だけのちっぽけな基準はいつか変わっていくだろう。あのとき、高校の体育館で板鳥さんのピアノの調律を目にして、欲しかったのはこれだと一瞬にしてわかった。わかりたいけれど無理だろう、などと悠長に考えるようなものはどうでもよかった。それは望みですらない。わからないものに理屈をつけて自分を納得させることがばかばかしくなった。
「あきらめないと思います」
声に出さずにつぶやく。あきらめる理由がない。要るものと、要らないものが、はっきり見えている。
***
最近、さる教育評論家の講演を聞く機会があったのですが、そのときに彼女が、
「子どもは親の時間を吸って育つ」「私は子どもに自分の時間をすべて吸わせました」
と言ってて。
そうなんだ、すごいな、でも私にはまねできない、そもそも子どもをもつことが想像できない…などと勝手に思っていたら、
一緒に聞いていた上司に案の定「お前は(結婚や子どもは得られないだろうから)仕事にすべての時間を吸わせたら?」と言われて(よく考えたら部下に言うことではまったくありませんが、もちろん、冗談でありましょう)ちょうど考えていた折も折です。
子どもに時間を吸わせれば、子どもは育つ。ある意味形あるものが世界に残る、それはそれで充実感の得られることだろう。
でも仕事に時間を吸わせたとして、私に何が残る?
そんなことを考えていたところなので、一万時間の話や、要るもの要らないもの、の話がアンテナに引っかかったのだと思います。
まぁ、その「仕事にすべての時間を吸わせる」決心もつかない時点で、本当は自分にとってどうでもよいものなのでしょう。
だからこそこんなに適当に為される。
自分のすべての時間を迷いなく、ためらいなく吸わせる対象を高校生にして見つけた主人公がうらやましく、自分もそうなれたら…と思いながら読んでいた、と思います。
ちなみに、「仕事に自分のすべての時間を吸わせて、何が残るのでしょうか」と当該上司に伺ったところ(よく考えたら上司に聞くことではまったくありませんが、もちろん、冗談であります)
「結局津波が来たら全部流されて、生き様しか残らないんだよ。人生で残せるものは生き様だけ」
と申しておりました。
…だんだんブログが彼の名言録と化しつつありますね(笑)
以上はねゆきでした。
【雑記】受け止めること
俺の言葉を、気持ちを、余計な言葉を入れずに受け止めろ
神よ願わくば私に
変えられないことを受け入れる落ち着きと
変えられることを変える勇気と
その2つを常に見分ける知恵とをお授けください
『スローターハウス5』
「問題を自分のこととして受け止めて、自分が変わらなければ、状況は変わらない」
【雑記】愛せよ、人生において良きことはそれだけである
【読書】原田マハ『本日は、お日柄もよく』
今日はお休みでした。わりとずっと本を読んでいました。
まずあらすじから。
OL二ノ宮こと葉は、想いをよせていた幼なじみ厚志の結婚式に最悪の気分で出席していた。ところがその結婚式で涙が溢れるほど感動する衝撃的なスピーチに出会う。それは伝説のスピーチライター久遠久美の祝辞だった。空気を一変させる言葉に魅せられてしまったこと葉はすぐに弟子入り。久美の教えを受け、「政権交代」を叫ぶ野党のスピーチライターに抜擢された!目頭が熱くなるお仕事小説。
2009年の政権交代時の衆院選をネタ*1に、「スピーチライター」という耳慣れない職業にスポットを当てた小説です。活躍の場はイベントや披露宴、選挙選にいたるまで幅広く、スピーチの原稿作成にとどまらず、コピーライティングやブランディングも担当する「スピーチライター」(スピーチコンサルタント)としてのこと葉の成長を描いています
実際目頭が熱くなるお仕事小説でしたはい。
この小説の魅力の1つとして、作中劇ならぬ作中スピーチとしてばしばし登場する名言・格言があります。たとえば、
「困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。三時間後の君、涙がとまっている。二十四時間後の君、涙は乾いている。二日後の君、顔を上げている。三日後の君、歩き出している」
これは作中オリジナルみたい。想像してみるといい、って、いいですね。
でも、個人的には一番はこれかなぁ。
「愛せよ。人生において良きことはそれだけである」
これは出典があるようで、ジョルジュ・サンド(フランスの女流作家で、ショパンの恋人)の名言のようです。
名言・格言というのは本当に強くて、ジョルジュ・サンドがもともとどういう文脈でこれを言ったか分かりませんが、スピーチとしてこの言葉だけを抜粋すると、ぴったりと聞く人それぞれの状況や心理に呼応しますよね。シンプルであればあるほど、多くの人に呼応し、各人にとっての「まるで私に向かって言っているような言葉」になる。だから目頭も熱くなるし、そんな表現を考え出すために日々工夫を重ねる人がいる、ということに心を打たれます。
他にもいろいろと本を読んだりして、充実した休日でした。
今日はまた長くて修羅場な1日なんだよな~(^^;
全国の日曜出勤のお仲間の皆さん、頑張りましょうね~。
以上はねゆきでした。
【雑記】成長すること、分別をもつこと
この文章は、「成長したい」という気持ちと、そして何より壮大かつ初歩的なミスをして針の筵なうえに上司に口もきいてもらえない現状への慰めとして記しました。
「人としてどうなのか!」と怒られている全国の同胞の皆さん*1 自分自身の人間的伸びしろを信じて一緒に頑張りましょう(笑)
******************
就職活動していた(そしてあまりうまくいっていなかった)学生時代の終わりかけ。私は「成長」という言葉が嫌いだった。
言ってみれば、「成長」アレルギー。
就職活動中を通じてそこここで聞いた「成長」という言葉には、「未来のあるべき姿は決まっていて、その理想に近づく」といったニュアンスが感じられた。たとえば会社が社員に対して「君の<成長>に期待します」という言うような場合、理想の社員像がすでにあり、いかにそれに近づいていくかが期待されている。このように「成長」はそれ自体ある価値観を含んだ言葉なのに、そのことが黙殺されて、「成長」そのものが無条件に善いことであり、若者が犠牲を払っても求めるべきことのように盛んに言われるのが嫌だった。
つまりこういうことだ。会社の「理想の社員像」に近づくことが、私の人生にとって本当に価値のあることなのか?単に「最適化」と言うべきではないのか?「<成長>に期待する」などと言ってほしくなかったのだ。単に「社員として、会社に<最適化>することを期待する」と言えばいい。
私がどうなるべきかは自分で決めることであり、それを<成長>などという枠組みで示される筋合いはない、と、そう思っていた。
ところで最近、かなり初歩的なミスで大騒動を引き起こした。今までの信頼(そもそもあまりない)を一気に失ったあげく、かつその際の言動や態度から(本人としてはかなり殊勝にしていたつもりが)さらに顰蹙を買い、「人としてどうなのか」「真面目にやっている人間に謝れ」と呼び出しでかなりがっつり怒られた。
そして最後に、優しい顔をして(だいたい会社で「人として」と怒る人はみなそう言うのだが)君のためを思って今日は厳しいことを言ったのだ、と言った。伸びしろがあると思いますよ。私たちは君の<成長>に期待する。
とにかく私はこの人の言葉に打たれた。彼女は私にめちゃめちゃ怒っていたが、同時に、私のことを真剣に何とかしようと思ってくれていた。そして、久々に<成長>という言葉を聞いた。今また<成長>が希求されている。自宅に帰って、辞書を引いた。
「せいちょう【成長】からだや心がそだって、一人前の状態になる(近づく)こと」
今まで「成長」という言葉は、ある価値観にコミットすることを賛美する押しつけがましい言葉だと思っていた。しかし(最初から辞書を引けば分かったことだが)この語そのものには、「大人になる」という程度の意味合いしかなかったのだ。
ついでに、「大人」も辞書で引いた。辞書というのは思考の道具としてかなり有能である。
「おとな【大人】①一人前に大きくなった人。②分別のある人。」
「一人前」で引くと「一人のおとな」とあり、堂々巡りになる。「分別」も引いた。
「ふんべつ【分別】こんなときには、こうするものだ、ということについての判断(の能力)」。
そうだったか、と思った。
おそらく何かの就活本や就活サイトだと思うのだが、就職活動中は、やたらと「成長」という言葉が氾濫していて、うまくいっていなかった私には人生に対する呪詛のようだった。また、「成長」信者に限って到達点を言明しないのも癪だった。私たちは「成長」して、いったいどこにたどり着くのか。何者になるのか。それは自明のこととして説明されず、私は「成長」という言葉にさらなる不信感を抱いた。
しかし、気づいてみれば当たり前にに単純なことだが、「成長する」というのは、言ってみれば、「大人になる」ということだったのだ。大人。こんなときには、こうするものだ、ということについての判断が正しくできる人。ミスをしたときにはどういう言動をとるべきか。どういう態度をとるべきか。平時であっても、相手の気持ちを斟酌してどのように振る舞うべきか。課せられた役割や責任に対して、どのようにそれを果たしていくのか。それをきちんと自前で判断できる人間になりなさい、ということだったのだ。
私が就職活動当時(うさんくさく)思っていたような、ビジネスパーソンとして<最適化>しなさい、という意味では全然なかった。仕事を通じて、人と関わり、役割と責任を引き受け、それを通じて「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が正しくできる「大人」になりなさい、という意味だったのだ。
ここに初めて私は仕事というものの本質的な意味を理解した。人は仕事を通じて人と関わり、役割と責任を持つことで、大人になるのだ。会社に対する貢献だとか、生産性だとか、利益だとかは、その副産物にすぎない。会社とは、そんな「大人」たちが共通の目的を設定して、それぞれ役割を果たすことで、一人ではできない大きな何事かを果たしている組織なのだ。
そして「大人になりなさい」という要請じたいは、個人の価値観にはまったく関係のない、なんというか、社会で生きる人間として根本的かつ最低限の要請にすぎない。そりゃそうだろう。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」ができない人ばかりだったら、社会ってものがそもそも成り立たないだろう。
そして焦った。私は今年で27歳になるが、まだまだ全然大人になっていない。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が、全然できていない。そんな半人前の状態で、気づかないまま人生ここまで来てしまった。本来4年前の就職活動を通じて、社会に出るときに解決しておくべきだった「宿題」が、まだ今になっても残っている。
今回の件は学びが大きかったが、それにしても「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」なんて、どうしたら「正しく」できるようになるのだろう、という問いは残る。結局「正しさ」は人によって違うから、「分別」もある価値観を含まざるを得ないことになるのかもしれない。が、この4年間働いてきた肌感覚で言うと、「分別」というものには、共通解がある気がする。
とにかく分別ある大人に近づくべく、明日も会社に行く。針の筵だけど。上司が口きいてくれないけど。5時起きだけど。
以上はねゆきでした。
*1:こんな光景が、全国の会社組織のあちこちで見られるかどうかは分からないが、私は半年に一度くらいは本格的な針の筵に座っている。とにかくミスや失敗は、「こんな無能で恥ずかしいことをするのは世界で自分だけだ」と思うからつらいし、またそれを認めたくないがためにいろいろ拗れていくのであって、「まぁこういうことって人生では(この世界では)よくあるんだろう」と俯瞰すればそんなにつらくはないし、素直になれるし拗らせずにすむ、というのは私の短い会社処世から得た知恵である(そして怒る人は「お前みたいなやつは、そうそういないぞ!」と言って怒るが、そんなわけはない)。あとは時間が解決してくれる。
【読書】パウロ・コエーリョ『11分間』
どんな本を読むの?
休日は何してんの?
…(夕方近くまで寝ていて、起きたら出かけて、本屋さんで閉店間際までぶらぶらして、その後は)本を読んだりとか。
へえ、すごい。どんな本読むの?好きな作家さんとか、いる?
… … …いや、わりと何でも。
パウロ・コエーリョ『11分間』
- 作者: パウロ・コエーリョ,平尾香,Paulo Coelho,旦敬介
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2004/02/29
- メディア: 単行本
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
〈私たちは涙の谷にいるのよ〉
「自分の好きでないことをやっているのだ。…自分の貴重な体と貴重な魂を、決してやってくることのない未来のためと銘打って差し出しているのだ。…あともうちょっと待つ、もうちょっと稼ぐ、自分の欲望の実現を後回しにする」
【読書】他人の脳のかけらをつなぐには~藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』
藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』を読みました
- 作者: 藤原和博
- 出版社/メーカー: 日本実業出版社
- 発売日: 2015/09/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (2件) を見る
都会のいいなぁと思うところが1つだけあって、自宅から地下鉄で15分も移動すれば大きな書店があるところ。
休日のたびにジュンク堂に通っている気がします。
この本も、ジュンク堂の話題本コーナーに平積みになっていて、手に取りました。
この手の読書論の本は、わりと読みます。
読書論の本って、ざっくり言うと「本を読むといいことがあるよ」と言っているものが多いのですが、おそらくそれを読む人は、私に限らず、そもそも最初から本が好きで普段から読んでいるんだと思うんですね。
(普段本を読まない人が、いきなり読書論の本を手に取って読書に目覚める…ということケースは少ないと思うのです)
つまり、本を読む人が、「本を読むといいことがあるよ」と言っている本を、うなずきながら読んでいるのです。
何だか不思議ですね。
どうして本を読むのだろうか
この本でも引用されていますが、今や1ヶ月に1冊も本を読まない人が47.5%に達したとのこと。
つまり2人に1人は本を読まないのです。それでも社会は回るし、当然生きてもいける現状。
それでは、どうして本を読むのだろうか。なんで私は本を読むんだろう。
そもそも最初から本を読むタイプの人が、わざわざ読書論(「本を読むといいことがあるよ」)の本を読む動機としては、この問いの答えを求めて…という部分が大きいのではないでしょうか。
もちろん本を読むのに理由はいらないと思います。当たり前のように読むでしょう。それが自然で疑問の余地はありません。
本を読むことは手段ではなく、目的そのものであるので、特に理屈を語る必要はない、という思いもあります。
でもたまに(どんなことにも合理性を求められる時代ですので)ふと(本を読まない人に聞かれたときなど)本を読む理由について、まじめに考えてみることもあるので、そんなときに(本読みの)人は読書論を読みます。少なくとも私はそう。
私が本を読む理由
私が本を読む理由は、今思いつく限り、大きく2つあります。
ひとつは、自分の中にもやもやしていることを、本が言語化してくれるからです。
本を読んでいると、「そうそう、そうなんだよ!私も前からそう思っていたのよ!」と激しくうなずいてしまうことも少なくないですね。
ただそれは、本を読むまでは「言葉になっていなかった」ので、正確には「思っていなかった」のですけれど、
混沌としたものが言語化されて、形と名を与えられ、最初からそこにあったことになり、「前からそう思っていた」ことになるのです。
そういった体験を求めて、混沌としたものに形と名を与えてくれそうな本を選んで、読むのです。
もうひとつは、本を読むことで、自分の中に新しい引き出しができるからです。
引き出し、というのは、新しい視点であったり思考回路であったり、知識であったりします。
これは(ここへきてようやく本の話に着地できるのですが)、この本(『本を読む人だけが手にできるもの』)と大きく関係してきます。
たとえば著者は、次のように述べています。
読書とは、「他人の脳のかけら」を、自分の脳につなげること
本は作者の構想や思考が詰まっている「脳のかけら」なので、それを読むことは自分の脳に他人の脳をつなげることだ。
現代は読書によって、レゴブロックのように他者の思考や見方を取り入れることで、独自の納得解を組み立てていく「情報編集力」が求められる。
そのためには、習慣化された乱読が効果的である…というのがこの本の要諦です。
その考え方自体は、私もおおいに賛成するところです。
しかし残念ながら、他人の脳のかけらをつないだだけではどうにもならない、というのもまた事実ではないでしょうか。
「読む」だけでは足りないので
私は、著者いうところの「他人の脳のかけらをつなぐ」行為が好きですが、実際それだけではどうしようもないことも身に染みて分かっています。
またその証拠に、この本に長く引用される著者の書評はあまり面白くありません(!)「他人の脳のかけら」をつないだだけの書評は面白くないのです。
この本の中でも、グーグルとアップルの本についての著者自身の書評を長大に引用した部分が最もつまらなく何を言いたいのか分かりません。
(リクルート前後や民間校長時代の著者の実体験のくだりは面白いし興味深いのに)
そもそも「本を読めば読むほど見識が広がる」のだとしたら、今頃私はもうちょっと賢くてまっとうな人間になってるはずじゃあないですか(笑)
ただ読むだけでは身につかない、血肉化しない。
他人の脳のかけらをただつないでいっても、それは「他人の脳のかけらの集積」にすぎず、自分の脳ではないのです。
それはゴミだし、ゴミは頭の中に残らない。そういうものではないでしょうか。
つなげた他人の「脳のかけら」を完全に消化し、自分の血肉とするには、おそらく「読む」行為だけでは足りないと思います。
それについてのヒントも、この本の中にありました(読書論は自己完結したビオトープなのです。すばらしいですね)
そこから、自分の意見を書いてみるという、つたない作業が始まる。
最初は2~3行のメモにしか過ぎなかったものが、やがては1000字程度(A4で1枚くらい)の雑文を書くようになった。
(中略)
この、だれに頼まれたわけでもなく書き続けたエッセイが70編近くになった。
その限られた30万時間の間に、どのようなインプットをして、どのようなアウトプットをしていくのか。
人生を生きるとは、つまりそういうことである。
そう。「他人の脳のかけらの集積」を自分の脳にする=読書によって得た思考や見識を血肉化するには、自ら「書く」というアウトプットの作業が必ずセットで必要なのです。
本を読み、それについて書く。それによって自分の見識を広げ、考えを広げていく。
ぐだぐだなってきましたが、それが本を読む理由、ということです。
やはり本を読むのは大切なことですね、うんうん(完結)
個人的には、(他の多くの読書論の本と同様)巻末の必読書リストに最も魅力を感じました。
こちらからもインスピレーションを受け、また何冊か読むことになると思います。
この人短い書評は別に悪くないけれど、あの長い書評のつまらない感じは何なんでしょうね。私だけ?
以上はねゆきでした。