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【読書】他人の脳のかけらをつなぐには~藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』

藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』を読みました

本を読む人だけが手にするもの

本を読む人だけが手にするもの

 
私は田舎で育ちまして、大人になって都会で独り暮らしを始めたクチです。

都会のいいなぁと思うところが1つだけあって、自宅から地下鉄で15分も移動すれば大きな書店があるところ。

休日のたびにジュンク堂に通っている気がします。

この本も、ジュンク堂の話題本コーナーに平積みになっていて、手に取りました。


この手の読書論の本は、わりと読みます。
読書論の本って、ざっくり言うと「本を読むといいことがあるよ」と言っているものが多いのですが、おそらくそれを読む人は、私に限らず、そもそも最初から本が好きで普段から読んでいるんだと思うんですね。
(普段本を読まない人が、いきなり読書論の本を手に取って読書に目覚める…ということケースは少ないと思うのです)

つまり、本を読む人が、「本を読むといいことがあるよ」と言っている本を、うなずきながら読んでいるのです。
何だか不思議ですね。

 

どうして本を読むのだろうか

この本でも引用されていますが、今や1ヶ月に1冊も本を読まない人が47.5%に達したとのこと。
つまり2人に1人は本を読まないのです。それでも社会は回るし、当然生きてもいける現状。

それでは、どうして本を読むのだろうか。なんで私は本を読むんだろう。
そもそも最初から本を読むタイプの人が、わざわざ読書論(「本を読むといいことがあるよ」)の本を読む動機としては、この問いの答えを求めて…という部分が大きいのではないでしょうか。

もちろん本を読むのに理由はいらないと思います。当たり前のように読むでしょう。それが自然で疑問の余地はありません。
本を読むことは手段ではなく、目的そのものであるので、特に理屈を語る必要はない、という思いもあります。

でもたまに(どんなことにも合理性を求められる時代ですので)ふと(本を読まない人に聞かれたときなど)本を読む理由について、まじめに考えてみることもあるので、そんなときに(本読みの)人は読書論を読みます。少なくとも私はそう。

 

私が本を読む理由

私が本を読む理由は、今思いつく限り、大きく2つあります。

ひとつは、自分の中にもやもやしていることを、本が言語化してくれるからです。
本を読んでいると、「そうそう、そうなんだよ!私も前からそう思っていたのよ!」と激しくうなずいてしまうことも少なくないですね。
ただそれは、本を読むまでは「言葉になっていなかった」ので、正確には「思っていなかった」のですけれど、
混沌としたものが言語化されて、形と名を与えられ、最初からそこにあったことになり、「前からそう思っていた」ことになるのです。
そういった体験を求めて、混沌としたものに形と名を与えてくれそうな本を選んで、読むのです。

 

もうひとつは、本を読むことで、自分の中に新しい引き出しができるからです。
引き出し、というのは、新しい視点であったり思考回路であったり、知識であったりします。
これは(ここへきてようやく本の話に着地できるのですが)、この本(『本を読む人だけが手にできるもの』)と大きく関係してきます。

たとえば著者は、次のように述べています。

読書とは、「他人の脳のかけら」を、自分の脳につなげること

本は作者の構想や思考が詰まっている「脳のかけら」なので、それを読むことは自分の脳に他人の脳をつなげることだ。
現代は読書によって、レゴブロックのように他者の思考や見方を取り入れることで、独自の納得解を組み立てていく「情報編集力」が求められる。
そのためには、習慣化された乱読が効果的である…というのがこの本の要諦です。

その考え方自体は、私もおおいに賛成するところです。
しかし残念ながら、他人の脳のかけらをつないだだけではどうにもならない、というのもまた事実ではないでしょうか。

 

「読む」だけでは足りないので

私は、著者いうところの「他人の脳のかけらをつなぐ」行為が好きですが、実際それだけではどうしようもないことも身に染みて分かっています。
またその証拠に、この本に長く引用される著者の書評はあまり面白くありません(!)「他人の脳のかけら」をつないだだけの書評は面白くないのです。

この本の中でも、グーグルとアップルの本についての著者自身の書評を長大に引用した部分が最もつまらなく何を言いたいのか分かりません。

リクルート前後や民間校長時代の著者の実体験のくだりは面白いし興味深いのに)

そもそも「本を読めば読むほど見識が広がる」のだとしたら、今頃私はもうちょっと賢くてまっとうな人間になってるはずじゃあないですか(笑)
ただ読むだけでは身につかない、血肉化しない。
他人の脳のかけらをただつないでいっても、それは「他人の脳のかけらの集積」にすぎず、自分の脳ではないのです。
それはゴミだし、ゴミは頭の中に残らない。そういうものではないでしょうか。

つなげた他人の「脳のかけら」を完全に消化し、自分の血肉とするには、おそらく「読む」行為だけでは足りないと思います。
それについてのヒントも、この本の中にありました(読書論は自己完結したビオトープなのです。すばらしいですね)

そこから、自分の意見を書いてみるという、つたない作業が始まる。
最初は2~3行のメモにしか過ぎなかったものが、やがては1000字程度(A4で1枚くらい)の雑文を書くようになった。
(中略)
この、だれに頼まれたわけでもなく書き続けたエッセイが70編近くになった。
その限られた30万時間の間に、どのようなインプットをして、どのようなアウトプットをしていくのか。
人生を生きるとは、つまりそういうことである。

そう。「他人の脳のかけらの集積」を自分の脳にする=読書によって得た思考や見識を血肉化するには、自ら「書く」というアウトプットの作業が必ずセットで必要なのです。

本を読み、それについて書く。それによって自分の見識を広げ、考えを広げていく。

ぐだぐだなってきましたが、それが本を読む理由、ということです。


やはり本を読むのは大切なことですね、うんうん(完結)


個人的には、(他の多くの読書論の本と同様)巻末の必読書リストに最も魅力を感じました。
こちらからもインスピレーションを受け、また何冊か読むことになると思います。

この人短い書評は別に悪くないけれど、あの長い書評のつまらない感じは何なんでしょうね。私だけ?

以上はねゆきでした。