はねゆきノート

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【雑記】成長すること、分別をもつこと

この文章は、「成長したい」という気持ちと、そして何より壮大かつ初歩的なミスをして針の筵なうえに上司に口もきいてもらえない現状への慰めとして記しました。

「人としてどうなのか!」と怒られている全国の同胞の皆さん*1 自分自身の人間的伸びしろを信じて一緒に頑張りましょう(笑)

 

******************

就職活動していた(そしてあまりうまくいっていなかった)学生時代の終わりかけ。私は「成長」という言葉が嫌いだった。

言ってみれば、「成長」アレルギー。

就職活動中を通じてそこここで聞いた「成長」という言葉には、「未来のあるべき姿は決まっていて、その理想に近づく」といったニュアンスが感じられた。たとえば会社が社員に対して「君の<成長>に期待します」という言うような場合、理想の社員像がすでにあり、いかにそれに近づいていくかが期待されている。このように「成長」はそれ自体ある価値観を含んだ言葉なのに、そのことが黙殺されて、「成長」そのものが無条件に善いことであり、若者が犠牲を払っても求めるべきことのように盛んに言われるのが嫌だった。

つまりこういうことだ。会社の「理想の社員像」に近づくことが、私の人生にとって本当に価値のあることなのか?単に「最適化」と言うべきではないのか?「<成長>に期待する」などと言ってほしくなかったのだ。単に「社員として、会社に<最適化>することを期待する」と言えばいい。

私がどうなるべきかは自分で決めることであり、それを<成長>などという枠組みで示される筋合いはない、と、そう思っていた。

 

ところで最近、かなり初歩的なミスで大騒動を引き起こした。今までの信頼(そもそもあまりない)を一気に失ったあげく、かつその際の言動や態度から(本人としてはかなり殊勝にしていたつもりが)さらに顰蹙を買い、「人としてどうなのか」「真面目にやっている人間に謝れ」と呼び出しでかなりがっつり怒られた。

そして最後に、優しい顔をして(だいたい会社で「人として」と怒る人はみなそう言うのだが)君のためを思って今日は厳しいことを言ったのだ、と言った。伸びしろがあると思いますよ。私たちは君の<成長>に期待する。

 

とにかく私はこの人の言葉に打たれた。彼女は私にめちゃめちゃ怒っていたが、同時に、私のことを真剣に何とかしようと思ってくれていた。そして、久々に<成長>という言葉を聞いた。今また<成長>が希求されている。自宅に帰って、辞書を引いた。

 

「せいちょう【成長】からだや心がそだって、一人前の状態になる(近づく)こと」

 

今まで「成長」という言葉は、ある価値観にコミットすることを賛美する押しつけがましい言葉だと思っていた。しかし(最初から辞書を引けば分かったことだが)この語そのものには、「大人になる」という程度の意味合いしかなかったのだ。

ついでに、「大人」も辞書で引いた。辞書というのは思考の道具としてかなり有能である。

 

「おとな【大人】①一人前に大きくなった人。②分別のある人。」

 

「一人前」で引くと「一人のおとな」とあり、堂々巡りになる。「分別」も引いた。

 

「ふんべつ【分別】こんなときには、こうするものだ、ということについての判断(の能力)」。

 

そうだったか、と思った。

おそらく何かの就活本や就活サイトだと思うのだが、就職活動中は、やたらと「成長」という言葉が氾濫していて、うまくいっていなかった私には人生に対する呪詛のようだった。また、「成長」信者に限って到達点を言明しないのも癪だった。私たちは「成長」して、いったいどこにたどり着くのか。何者になるのか。それは自明のこととして説明されず、私は「成長」という言葉にさらなる不信感を抱いた。

 

しかし、気づいてみれば当たり前にに単純なことだが、「成長する」というのは、言ってみれば、「大人になる」ということだったのだ。大人。こんなときには、こうするものだ、ということについての判断が正しくできる人。ミスをしたときにはどういう言動をとるべきか。どういう態度をとるべきか。平時であっても、相手の気持ちを斟酌してどのように振る舞うべきか。課せられた役割や責任に対して、どのようにそれを果たしていくのか。それをきちんと自前で判断できる人間になりなさい、ということだったのだ。

私が就職活動当時(うさんくさく)思っていたような、ビジネスパーソンとして<最適化>しなさい、という意味では全然なかった。仕事を通じて、人と関わり、役割と責任を引き受け、それを通じて「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が正しくできる「大人」になりなさい、という意味だったのだ。

ここに初めて私は仕事というものの本質的な意味を理解した。人は仕事を通じて人と関わり、役割と責任を持つことで、大人になるのだ。会社に対する貢献だとか、生産性だとか、利益だとかは、その副産物にすぎない。会社とは、そんな「大人」たちが共通の目的を設定して、それぞれ役割を果たすことで、一人ではできない大きな何事かを果たしている組織なのだ。

そして「大人になりなさい」という要請じたいは、個人の価値観にはまったく関係のない、なんというか、社会で生きる人間として根本的かつ最低限の要請にすぎない。そりゃそうだろう。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」ができない人ばかりだったら、社会ってものがそもそも成り立たないだろう。

 

そして焦った。私は今年で27歳になるが、まだまだ全然大人になっていない。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が、全然できていない。そんな半人前の状態で、気づかないまま人生ここまで来てしまった。本来4年前の就職活動を通じて、社会に出るときに解決しておくべきだった「宿題」が、まだ今になっても残っている。

今回の件は学びが大きかったが、それにしても「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」なんて、どうしたら「正しく」できるようになるのだろう、という問いは残る。結局「正しさ」は人によって違うから、「分別」もある価値観を含まざるを得ないことになるのかもしれない。が、この4年間働いてきた肌感覚で言うと、「分別」というものには、共通解がある気がする。

 

とにかく分別ある大人に近づくべく、明日も会社に行く。針の筵だけど。上司が口きいてくれないけど。5時起きだけど。

 

以上はねゆきでした。

*1:こんな光景が、全国の会社組織のあちこちで見られるかどうかは分からないが、私は半年に一度くらいは本格的な針の筵に座っている。とにかくミスや失敗は、「こんな無能で恥ずかしいことをするのは世界で自分だけだ」と思うからつらいし、またそれを認めたくないがためにいろいろ拗れていくのであって、「まぁこういうことって人生では(この世界では)よくあるんだろう」と俯瞰すればそんなにつらくはないし、素直になれるし拗らせずにすむ、というのは私の短い会社処世から得た知恵である(そして怒る人は「お前みたいなやつは、そうそういないぞ!」と言って怒るが、そんなわけはない)。あとは時間が解決してくれる。

【読書】パウロ・コエーリョ『11分間』

どんな本を読むの?

「どんな本を読むの?」という質問、あれにわりと困るのは私だけでしょうか。

たとえばですね、
休日は何してんの?
…(夕方近くまで寝ていて、起きたら出かけて、本屋さんで閉店間際までぶらぶらして、その後は)本を読んだりとか。
へえ、すごい。どんな本読むの?好きな作家さんとか、いる?
… … …いや、わりと何でも。

とか。
そういう会話になりがちです。
面倒くさい。自分にとって本当に大切なことを、会話内で当意即妙にお伝えすることは大変面倒くさい。
どんな本を、って言われてもなぁ。ジャンルで決めるわけではないですね。
小説も読むし、ビジネス書も読むし、エッセイも読むし…。ジャンル不問、和洋新旧取り混ぜ、わりと何でも。
本当によく聞かれるので、ちゃんと普段から答えを決めておかないといけないなぁと思う今日この頃です。

そしてもうひとつ問題としては、日常関わりのある人に読書傾向を知られるのは、性癖を知られるのに似た気はずかしさがあるわけです。
たとえば個人的な話ですが、「筒井康隆の『旅のラゴス』が良かった」は普通に言えますが、パウロ・コエーリョが良かった、とは、たぶん知り合いには言わないでしょうね。
まぁ、心の中にしまっておくかな。別に筒井康隆がどうでパウロ・コエーリョがどうで、ということではなくて、自分の現実世界と精神世界の折り合いの問題だと思うのですが(もちろん、逆に筒井康隆が好きってよう言わない、という人もいるでしょう)
それは人それぞれ、目に見えないラインがあるのではないでしょうか。


パウロ・コエーリョ『11分間』

本題に入ります。
パウロ・コエーリョ『11分間』を読みました。

11分間

11分間


昨年末からパウロ・コエーリョを読み始めて、『星の巡礼』と『ベロニカは死ぬことにした』、それから『11分間』。

さて、『11分間』は、ブラジル人の女の子がダンサーとしてスカウトされてやって来たスイスで、娼婦となり、運命的な恋愛をする…という話です。
運命的な恋愛について、印象的なくだりもありますが、とりあえず置いておきます。
(ちょっと参照しようがないというか、経験値が乏しいため、現実との距離が測りかねる)

まぁ一言でいうと、エロ×スピリチュアルなんですが、おセックスがいちいちスピリチュアルなので別にそこまでエロくはないわけですハイ。
そしてその記述がどの程度現実と乖離しているか、私には判断するすべがない。

… … …

さてさて、印象的だったのは、彼女が娼婦になることを決めるシーンとか。

〈私たちは涙の谷にいるのよ〉

涙の谷、という表現が印象的。出典があるのかもしれませんが、寡聞にして分かりません。
後は、娼婦をやめようと決意するシーンとか。

「自分の好きでないことをやっているのだ。…自分の貴重な体と貴重な魂を、決してやってくることのない未来のためと銘打って差し出しているのだ。…あともうちょっと待つ、もうちょっと稼ぐ、自分の欲望の実現を後回しにする」

結局は自分の人生を、好きでないことのために浪費していると気づいたマリーア。
スイスに来て娼婦になると決めたシーンと対照的で印象に残りました。


パウロ・コエーリョの作品は、主人公が特別な経験を通じて、精神的な成長だったり、人生の変化や気付きだったりを得る様子を、鮮やかに描いたものが多くて。
それ私は結構好きなんです。どこか読書を通じて、精神的な成長や変化や、気付きを得たいと思っていて、それに合致している、ということだと思う。

が、私の中では、アラサーお一人様女子のスピリチュアルは人目を憚る…というか、まぁ現実世界では人に紹介しないかなぁ…と思います。
現実との距離感の問題。

以上はねゆきでした。





【読書】他人の脳のかけらをつなぐには~藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』

藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』を読みました

本を読む人だけが手にするもの

本を読む人だけが手にするもの

 
私は田舎で育ちまして、大人になって都会で独り暮らしを始めたクチです。

都会のいいなぁと思うところが1つだけあって、自宅から地下鉄で15分も移動すれば大きな書店があるところ。

休日のたびにジュンク堂に通っている気がします。

この本も、ジュンク堂の話題本コーナーに平積みになっていて、手に取りました。


この手の読書論の本は、わりと読みます。
読書論の本って、ざっくり言うと「本を読むといいことがあるよ」と言っているものが多いのですが、おそらくそれを読む人は、私に限らず、そもそも最初から本が好きで普段から読んでいるんだと思うんですね。
(普段本を読まない人が、いきなり読書論の本を手に取って読書に目覚める…ということケースは少ないと思うのです)

つまり、本を読む人が、「本を読むといいことがあるよ」と言っている本を、うなずきながら読んでいるのです。
何だか不思議ですね。

 

どうして本を読むのだろうか

この本でも引用されていますが、今や1ヶ月に1冊も本を読まない人が47.5%に達したとのこと。
つまり2人に1人は本を読まないのです。それでも社会は回るし、当然生きてもいける現状。

それでは、どうして本を読むのだろうか。なんで私は本を読むんだろう。
そもそも最初から本を読むタイプの人が、わざわざ読書論(「本を読むといいことがあるよ」)の本を読む動機としては、この問いの答えを求めて…という部分が大きいのではないでしょうか。

もちろん本を読むのに理由はいらないと思います。当たり前のように読むでしょう。それが自然で疑問の余地はありません。
本を読むことは手段ではなく、目的そのものであるので、特に理屈を語る必要はない、という思いもあります。

でもたまに(どんなことにも合理性を求められる時代ですので)ふと(本を読まない人に聞かれたときなど)本を読む理由について、まじめに考えてみることもあるので、そんなときに(本読みの)人は読書論を読みます。少なくとも私はそう。

 

私が本を読む理由

私が本を読む理由は、今思いつく限り、大きく2つあります。

ひとつは、自分の中にもやもやしていることを、本が言語化してくれるからです。
本を読んでいると、「そうそう、そうなんだよ!私も前からそう思っていたのよ!」と激しくうなずいてしまうことも少なくないですね。
ただそれは、本を読むまでは「言葉になっていなかった」ので、正確には「思っていなかった」のですけれど、
混沌としたものが言語化されて、形と名を与えられ、最初からそこにあったことになり、「前からそう思っていた」ことになるのです。
そういった体験を求めて、混沌としたものに形と名を与えてくれそうな本を選んで、読むのです。

 

もうひとつは、本を読むことで、自分の中に新しい引き出しができるからです。
引き出し、というのは、新しい視点であったり思考回路であったり、知識であったりします。
これは(ここへきてようやく本の話に着地できるのですが)、この本(『本を読む人だけが手にできるもの』)と大きく関係してきます。

たとえば著者は、次のように述べています。

読書とは、「他人の脳のかけら」を、自分の脳につなげること

本は作者の構想や思考が詰まっている「脳のかけら」なので、それを読むことは自分の脳に他人の脳をつなげることだ。
現代は読書によって、レゴブロックのように他者の思考や見方を取り入れることで、独自の納得解を組み立てていく「情報編集力」が求められる。
そのためには、習慣化された乱読が効果的である…というのがこの本の要諦です。

その考え方自体は、私もおおいに賛成するところです。
しかし残念ながら、他人の脳のかけらをつないだだけではどうにもならない、というのもまた事実ではないでしょうか。

 

「読む」だけでは足りないので

私は、著者いうところの「他人の脳のかけらをつなぐ」行為が好きですが、実際それだけではどうしようもないことも身に染みて分かっています。
またその証拠に、この本に長く引用される著者の書評はあまり面白くありません(!)「他人の脳のかけら」をつないだだけの書評は面白くないのです。

この本の中でも、グーグルとアップルの本についての著者自身の書評を長大に引用した部分が最もつまらなく何を言いたいのか分かりません。

リクルート前後や民間校長時代の著者の実体験のくだりは面白いし興味深いのに)

そもそも「本を読めば読むほど見識が広がる」のだとしたら、今頃私はもうちょっと賢くてまっとうな人間になってるはずじゃあないですか(笑)
ただ読むだけでは身につかない、血肉化しない。
他人の脳のかけらをただつないでいっても、それは「他人の脳のかけらの集積」にすぎず、自分の脳ではないのです。
それはゴミだし、ゴミは頭の中に残らない。そういうものではないでしょうか。

つなげた他人の「脳のかけら」を完全に消化し、自分の血肉とするには、おそらく「読む」行為だけでは足りないと思います。
それについてのヒントも、この本の中にありました(読書論は自己完結したビオトープなのです。すばらしいですね)

そこから、自分の意見を書いてみるという、つたない作業が始まる。
最初は2~3行のメモにしか過ぎなかったものが、やがては1000字程度(A4で1枚くらい)の雑文を書くようになった。
(中略)
この、だれに頼まれたわけでもなく書き続けたエッセイが70編近くになった。
その限られた30万時間の間に、どのようなインプットをして、どのようなアウトプットをしていくのか。
人生を生きるとは、つまりそういうことである。

そう。「他人の脳のかけらの集積」を自分の脳にする=読書によって得た思考や見識を血肉化するには、自ら「書く」というアウトプットの作業が必ずセットで必要なのです。

本を読み、それについて書く。それによって自分の見識を広げ、考えを広げていく。

ぐだぐだなってきましたが、それが本を読む理由、ということです。


やはり本を読むのは大切なことですね、うんうん(完結)


個人的には、(他の多くの読書論の本と同様)巻末の必読書リストに最も魅力を感じました。
こちらからもインスピレーションを受け、また何冊か読むことになると思います。

この人短い書評は別に悪くないけれど、あの長い書評のつまらない感じは何なんでしょうね。私だけ?

以上はねゆきでした。

 

Hard Mode My Life ~大手転職エージェントに登録してみた~

ご無沙汰からのいきなりですが、このたび大手転職エージェントに登録しました。

今回上司にどんなひどいことを言われてそうした行動に走ったかは、今日はとりあえず書きません(笑)
登録からあれよあれよと話が進んで、今日実際にエージェントの人から電話がかかってきました。
緊張しながら、15分くらい話して…

で、結局、「じゃ、今んとこ、とりあえず転職活動しないね」という話にまとまりました。

その電話面談中、エージェントの人は「まぁ、ご自身でもう薄々お気づきかとは思いますが…」という感じで話を進めていましたが、いやもう全然お気づきじゃなかったですよ。無知なもので。
とにかく、言われて初めて「そういえば、そうじゃん!」ということが多くありました。
なので、備忘録もかねて書いておきます。

私の「お気づきじゃない」程度があまりに浮世離れしていて誰の役にも立たない可能性がかなりありますが、それについてはご容赦ください。


①Uターンはハードルが高い

もともと実家が東海地方なので、Uターンしたいなー、という気持ちが漠然とありました(現在は北海道に住んでいます)。
実家に戻るつもりはあまりありませんが、北海道でずっと一人で生きているのも寂しいので、せめて東海・北陸・近畿とか、地続きのところに帰りたいなぁと。
家族も友人もみんなそのへんにいるし…と軽い気持ちでUターンの希望を伝えました。

 

でも、よく考えてみれば分かることですが、Uターンってめちゃめちゃ初期コストがかかるんですよね。
まず面接に行くのに交通費がかかります。面接は1社につき2回なので、札幌から東海地方の企業を1社受けに行っただけでも2回往復14~5万はかかる。
それに引っ越しの費用なども考えると、初期コストとして60万くらいかかりますよ、と。
また、平日に本州に面接を受けに行かなければならないとなると、現職のままでは時間の確保も難しい。というか平日に休みなんてとれっこない。
もろもろ大変であるので、企業の書類選考のハードルも上がりますよ、という話でした。

つまり、北海道って、1回就職して住んでしまうと、なかなか脱出が難しい…という。

就職のときは半ばヤケになっていたので考えていませんでしたが、「(北海道から本州に)戻りたい」と思うと大変なようです。
なかなかハードですね。


②文系=「接客」「営業」「事務」

自分の現職は学習塾で、「塾講師は潰しがきかない」と言われているので不安だったのですが、そんなことはない、とのこと。
Uターンを諦めれば、転職先はそんなに苦戦せず見つけられるでしょう、という感じでした。ただし転職先としては営業職が多いとのこと。
自分としては、転職をするとしたら「接客」「営業」の仕事は避けたいと思っていたのですが、そうなると文系の転職先は必然的に「事務」になるようで、エージェントの人もしきりに「事務への転職は…」という話をしてました。

 

別に事務職に転職したいわけではないのですが…

つまり、専門職でない文系の人って、「接客」か「営業」か「事務」のどれかは最低限できないと生きていけない…ってことか…
接客も営業も事務も取り立てて得意そうな感じがしません…となるとそれは自分の能力不足の問題ってことかな。
なかなかハードですね。

例外は、「システム系の勉強をしていた人はSEで内定が出ていました」…シ、システム??
なかなかハードですね。で、システムって何?(安心してください、エージェントさんには聞きませんでした!笑)


③転職活動は3ヶ月でやるもの

学習塾業界では、「年度末退職」が最低限守るべきスジです。自分もそこはスジを通すつもりです。
そして今から活動を始めて今年度末に転職…というのはあまりに急というか、無理な日程のように思えたので、来年度末での転職を…と考えていたのですが、
「来年度末の転職だったら、来年の今頃にまた来てください」と言われました。
転職活動は3ヶ月くらいでやるものなので、来年の今頃も同じくらいの景気だったら、1月から転職活動をしても平均1ヶ月くらいで内定出ますよ、とのこと。

それで結局「今んとこ、とりあえず転職活動しないね」という話にまとまったわけです。

そもそもスケジュール感がまったくわかっていませんでした。エージェントの人にも、まったく相手にされていない感じが、ひしひしと伝わってきました(笑)
なかなかハードですね。

 

まとめ It's too hard for me to live・・・

まとめっていうか、「ハードですね」としか言ってない。それしか感想がありません。

これちょっと、やばいかも…?と、浮世離れした私でもさすがに思いましたは。

 

 

新卒で北海道にぽーんと来てしまったが、よくよく後で考えてみたら、引き返すことのできない道だった。

今まで「学習塾を最初の就職先として選んだこと」が一番の失敗で、それによって選択肢が狭まっているのだと思っていたけれど、そういうわけでもなく。
まず北海道に来てしまった、ということで、本州に戻ることが難しくなってしまった。
また職種については、文系で専門職でないならば、「接客」「営業」「事務」のどれかにだいたい収まるので、そもそもそんなに広い選択肢がなかった。

文系で、「接客」も「営業」も「事務」も得意じゃなさそうで、「システム系」が何のことか分からない私にとっては、生きることがそもそもハード…!

そうなってくると、現職で抱えている問題を何とかして、今の会社で長く働けるように頑張るのが、結局は一番カンタンなのかもしれません。

 

ただ、今までぼんやりとしていたことが、15分くらいお話しを聴いたら具体的に分かって、なかなか有意義だったかとは思います。
今日得た情報を踏まえて今後の生存戦略を立てていきたいと思います。

以上はねゆきでした。

【読書】「ゼロ秒思考」をやってみた。

新年明けましておめでとうございます。

3日間の弾丸帰省を終えて戻ってきました。やはりこちらは寒いですねー。実家の方は毎日10℃近くあって過ごしやすかったのに…ぶるる。
 
さて、空港で買って移動中に読んだ本の話です。

 

 

 

ゼロ秒思考  頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

 

 

 

 

著書は元マッキンゼーの方。誰でも深く考える力を身につけ、さらには「ゼロ秒思考」といえる究極のレベルまで到達するためのメソッドを紹介しています。
方法論は意外とシンプルで、頭に思い浮かんだことをどんどんメモする、というもの。
 
メモを書く際は、A4用紙を横置きにし、左上にタイトルを書いて下線を引く。
しかも1ページにびっしり書くのではなく、わずか4~6行書いて終わりにする。
右上には年月日を入れる。
 
 
フォーマットはこれだけです。詳しくは本を読んでいただくとして。
また、1ページを1分以内で/1日10ページ以上書く、のが大切とのこと。
 
 
読んだとき、これわりといいかもな、と思いました。
確かに、頭の中で同じ考え(と呼ぶのもおこがましい、妄想の域に属するレベル)が堂々巡りしてなかなか進まないことってよくありますし…
それをがんがん書き出して整理する、というのは、確かに効果的な思考方法かもしれないな、と思いました。
特に自分は書くことが好きで、書くとすっきりするタイプなので、相性もいいだろうな…と。
 
で、実際にやってみました。
以下はやってみた感想です。
 
 

初心者に1ページ1分はきつい

この本では、「日付、タイトル、本文(4~6行)すべて含めて1ページ1分」というのが目標とされていましたが、初心者には到底無理かと…
まず初めの2~3枚は、タイトルすら書ききらずに1分が経過しました。
なのでとりあえず、1分は諦めて、3分くらいでやってみました。これでまぁまぁ書けるようにはなりましたが、1ページに6分くらいかかることも少なくありませんでした…。
それで昨夜、8ページ書くのに、小一時間はかかってしまいました。
 
でも手応えは結構あって。
まず頭の中でぐるぐるしていたことが外に吐き出されて、ちょっと前向きな気持ちになりました。
今までただ「あー、どうしよう」って思っていたことが、8ページ書く頃には、こうしてこうしよう…と光が見えている状況になさった、というか。
 
やっぱり書くことの力は偉大です。
 
 

タイトルのつけ方が鍵

やってみて思ったのですが、非常に短い時間でタイトル(課題や問い)と本文(問いに対する答え)を書いていくとなると、タイトルのつけ方が鍵になります。というか正直、タイトルが決まった時点で、頭の中ではほとんど答えが出ているんですよね。
たとえば、「転職すべきかどうか」ってタイトルを書いた時点で、もう8割くらい転職しようと決めてるんですよ。これはほんとに。
 
問いが答えを縛るんです。
ですから、このメソッドはタイトルのつけ方がすごく大切。
そもそも、1分で書ける=答えが既に自分の中にある、ということですよね。かつ、その解答が〈自分の中で答えが出ていない問題〉の解になっている、ということ。
「ゼロ秒思考」とは、そのような問いを、どんどん発想・展開していく思考方法なのではないか、と思いました。1日やってみただけですけども。
それには適切なタイトルをつける力が必須だなー、と痛感した次第です。
 
ただしこれは慣れないと難しいかもなぁ…続けていったら、頭がよくなりそうですけども。
 
やり方はとても気に入ったので、しばらく続けてやってみようと思います。
 
 
今年もよろしくお願いいたします。
以上はねゆきでした。
 

近況~聞かなかったことにはできない言葉

今年も残りわずかとなりました…。
とりあえず本日夕方まで仕事があって、最終の飛行機で帰省してきています。ようやく家に着きそう。

さて年末は、仕事の方で思いがけず大炎上した案件があり、大変でした。
顧客に会社の方針を伝えなければならず、しかもかなり会社都合で先方に対して心ない方針であったので…私個人としてもあまりにひどい内容に思えて納得できず、回避するためにいろいろと手を尽くしはしたのですが、言うて何の権限もないわけで。
だからまぁ、炎上することは分かっていましたが…
「聞いてんのか、この人でなし!訴えるからね!」と延々小一時間罵られる大クレームに発展しました。

まぁ、訴えるから、が効いたのか会社の上の人が方針転換するみたいな流れになりましたけど。
この件でかなりいろんな認識が変わりました。


「聞かなかったことにはできない」

まず一つ分かったことは、人間には「聞かなかったことにはできない」言葉がある、ということです。
私は普段から上司に罵られ慣れており、人格攻撃くらいでいちいち傷つかないタフなハートの持ち主だと自負をしておりました。
また、様々な自己啓発本などから「身に起きた出来事によって傷つくのではなく、自らの反応によって傷つくのだ」などの理論も学んでおり、今回も「こんなことで傷つくのではない」と自分に言い聞かせておりました。

まぁでも、それは無理でしたわ。
上司の言葉は確かに厳しいけれど、気持ちとしては愛情に発しているわけで。でもその顧客は、私に怒り、憎悪し、それをぶつける権利を持っていて(まぁ、完全にこっちが非道な話ですので)、私はただただ聞いて受け入れるしかなかった。

精神の問題ではないんです。身体なんです。
向けられた憎悪が、怒りが、身体の中で残響してるんです。夜中に目が覚めて眠れないし、仕事をしていても息が苦しくなる。
「人でなし」という言葉が、まだ身体に残っている。
それは、聞かなかったことにはできない。

そして、そのような「繊細な反応」をする自分自身も、ひどく許せなくて。
人でなしって言われたくらいで、私はこんなふうになるのか。そんな脆弱な人間なのかと。世の中には、クレームを処理する専門の方もいらっしゃるくらいで、私なんか一回怒鳴られただけなのに…甘ったれだなぁって。

私にとって「つらいこと」って、お客さんから罵られたっていうその程度なのかって。


人でなしは誰なのか

ちなみに当の決定権者には怒られました。
「訴えるなんて言われるのはお前の人望がないからだ」とのこと(人でなしとまで言われたことは報告しませんでした)。
これについては深く考えないようにしようと思っています。…気が遠くなるので。
確かに普段から人望があれば、そこまで罵倒はされなかったかもしれませんね。
それにしてもね…
人でなしって、あなた自分で罵られればよかったのにね、ってどうしても思ってしまいます。子どもですね。


ということで自分に対しても、会社に対しても、失意のうちに年の瀬を迎えることとなりました。
でも何だか、失意の向こうに、今まで全然見えてなかった何かが見えそうな気配もするんですよね。
自分としては、つらいことや理不尽なことに打ち負かされるのではなく、乗り越えて強くなっていく人間でありたいのです。

ヘビーな感じですみません。
どうかよいお年を。

【読書】『反応しない練習』読書メモ

最近ホントに怒りっぽくて反省してます。
(いや、あんまりしてません 笑)

たとえば先日、こんなことがありました。

FMラジオの匿名の投稿コーナーで、
「先輩が細かいミスでいちいちうるさいんです!自分だってミスをたくさんしてるのに謝りもしないで人間性を疑います!」
みたいな愚痴(?)が読まれたんですが、それ聞いて一瞬で沸騰しちゃって。

これウチの新人くんじゃない?
あいつが私の悪口言ってんじゃない?
って。

…いや内容が図星だから怒っているんだろうとかそういうことじゃなくてそりゃ私だって自分の人間性については十分疑っていますが一方的に言われる筋合いないわけですよ言われたからにはこちらにも100個くらい言い返したいことがあります細かいミスっていうけどその認識が間違ってるっていうかスタンスがそもそもおかしくてしかもすぐ仕事多すぎるのやめたいの言いますけどねホント何にもしてないく

…って際限なく腹が立ってくるわけですよ。


まぁでも我ながらちょっと病んでるなと思います。ダークサイドにおちてますねー
だって別に彼の投稿とは限りませんしね、普通に考えて。
なのに勝手に決めつけて、それに対して猛然と腹が立っちゃうわけですから。
しかも一旦そうだと思ってしまうと、冷静になろうとしてもなかなか抜け出せなくてですね。

心を乱すな!抑えることを学べ!
ってなもんですよねー


さて最近こんな本を読みまして、とても参考になりましたので、自分のメモがてら紹介します。

この本の要旨をざっくり一言で言うと、「『反応』せず『理解』することで悩みを解決していく」ということです。
個人的には第1章がすっと入ってこないで、理解するまでに何度か読み返した部分もありました。おそらく先に、この本のキーワードである「反応」「理解」がどんなことを指しているのかつかんでおくと、分かりやすいかなーと思います。

まず「反応」とは。

たとえば、朝の通勤ラッシュで「今日も混んでいるな」とゲンナリする。これは、心を憂鬱にさせる反応です。心ない相手の態度にイラッとする。これは、怒りを生む反応です。(中略)人と会うときも、仕事をしているときも、外を歩いているときもー心は、いつも反応しています。

この反応が悩みの原因なので、ムダな反応を減らしていこう!というのがこの本の主張です。

なんだか、『7つの習慣』の、
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのだ。

にちょっと似てますね。

確かに、カーラジオの投稿コーナーでどんなに身に覚えのある(笑)悪口を言われても、それそのこと自体によって傷つけられるわけではないですからね。
「これはウチの後輩に違いない!」と決めつけ、「何だよ一方的に言いたい放題言いやがって!」と沸騰し、あとは「図星だから怒っているんだとかそういう問題じゃない」「そもそも自分の人間性の問題についてはよく認識していて、あんたごときにとやかく言われたくはない」などとどんどん自分で燃料を投下していくわけです。
実際には誰も何も言っていないところから、「心の反応」だけで、ここまで怒り狂っちゃうんだから…業が深いですね。

一方「正しい理解」とは、
「自分はこう考える」という判断や、解釈や、ものの見方をいっさい差し引いて、「ある」ものを「ある」とだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きの「ニュートラル」な目で、物事を見すえることだけを意味しています。
「正しい理解」に「反応」はありません。ただ見ているだけです。

とのこと。難しいことをいっている…。
本には正しい理解のための具体的なトレーニング方法なども書いてありました。
ぜひ、読んでみてください。


他にも、「妄想」の話が参考になりました。現実を悪く解釈した判断や、過去の記憶さえも、脳内の妄想にすぎない、という話。
これについては、
「妄想は妄想にすぎない」
「妄想には際限がないし、根拠もない」
「わたしはこれ以上、妄想を追いかけない」という立場に立ってしまうのです。
というのが著者のアドバイスでした。

あとは承認欲求の話とかね。
カーラジオの投稿から始まった新人くんへの怒りだって、元を正せば自分自身の承認欲求に着地する気がして。

自分自身は、新人の頃から打ち続く人格否定と罵倒の中、「仕事やめたい」どころか、「遺書を書いて死んでやりたい」とまで思いながらも、心を強くして耐え抜いてきた、と思います。
なのに新人くんは、別に大してひどいこと言われてないのに「やめたい」の何のと弱音を吐き、周りもわたわたして(私には厳しい一辺倒なのに)「君とはタイプが違うのだから、優しく接しないとダメだ」などと気を使う、という…ちょっと理不尽だなぁと思うわけです。だからムカつくわけです。
つまり、平たく言えば、

タイプがちがう?
耐えてきた私の努力は何だったんだよ!
私をもっと認めて!
私にも優しくしてよ!

という、言ってしまえば「承認欲求」なわけで。
そういうのもすべて「妄想」であるので、目を閉じて、妄想であることを実感するとよい、とのことでした。

ゆうても難しいことですね。
あまり怒らないようにしたいです。

以上はねゆきでした。