【雑記】成長すること、分別をもつこと
この文章は、「成長したい」という気持ちと、そして何より壮大かつ初歩的なミスをして針の筵なうえに上司に口もきいてもらえない現状への慰めとして記しました。
「人としてどうなのか!」と怒られている全国の同胞の皆さん*1 自分自身の人間的伸びしろを信じて一緒に頑張りましょう(笑)
******************
就職活動していた(そしてあまりうまくいっていなかった)学生時代の終わりかけ。私は「成長」という言葉が嫌いだった。
言ってみれば、「成長」アレルギー。
就職活動中を通じてそこここで聞いた「成長」という言葉には、「未来のあるべき姿は決まっていて、その理想に近づく」といったニュアンスが感じられた。たとえば会社が社員に対して「君の<成長>に期待します」という言うような場合、理想の社員像がすでにあり、いかにそれに近づいていくかが期待されている。このように「成長」はそれ自体ある価値観を含んだ言葉なのに、そのことが黙殺されて、「成長」そのものが無条件に善いことであり、若者が犠牲を払っても求めるべきことのように盛んに言われるのが嫌だった。
つまりこういうことだ。会社の「理想の社員像」に近づくことが、私の人生にとって本当に価値のあることなのか?単に「最適化」と言うべきではないのか?「<成長>に期待する」などと言ってほしくなかったのだ。単に「社員として、会社に<最適化>することを期待する」と言えばいい。
私がどうなるべきかは自分で決めることであり、それを<成長>などという枠組みで示される筋合いはない、と、そう思っていた。
ところで最近、かなり初歩的なミスで大騒動を引き起こした。今までの信頼(そもそもあまりない)を一気に失ったあげく、かつその際の言動や態度から(本人としてはかなり殊勝にしていたつもりが)さらに顰蹙を買い、「人としてどうなのか」「真面目にやっている人間に謝れ」と呼び出しでかなりがっつり怒られた。
そして最後に、優しい顔をして(だいたい会社で「人として」と怒る人はみなそう言うのだが)君のためを思って今日は厳しいことを言ったのだ、と言った。伸びしろがあると思いますよ。私たちは君の<成長>に期待する。
とにかく私はこの人の言葉に打たれた。彼女は私にめちゃめちゃ怒っていたが、同時に、私のことを真剣に何とかしようと思ってくれていた。そして、久々に<成長>という言葉を聞いた。今また<成長>が希求されている。自宅に帰って、辞書を引いた。
「せいちょう【成長】からだや心がそだって、一人前の状態になる(近づく)こと」
今まで「成長」という言葉は、ある価値観にコミットすることを賛美する押しつけがましい言葉だと思っていた。しかし(最初から辞書を引けば分かったことだが)この語そのものには、「大人になる」という程度の意味合いしかなかったのだ。
ついでに、「大人」も辞書で引いた。辞書というのは思考の道具としてかなり有能である。
「おとな【大人】①一人前に大きくなった人。②分別のある人。」
「一人前」で引くと「一人のおとな」とあり、堂々巡りになる。「分別」も引いた。
「ふんべつ【分別】こんなときには、こうするものだ、ということについての判断(の能力)」。
そうだったか、と思った。
おそらく何かの就活本や就活サイトだと思うのだが、就職活動中は、やたらと「成長」という言葉が氾濫していて、うまくいっていなかった私には人生に対する呪詛のようだった。また、「成長」信者に限って到達点を言明しないのも癪だった。私たちは「成長」して、いったいどこにたどり着くのか。何者になるのか。それは自明のこととして説明されず、私は「成長」という言葉にさらなる不信感を抱いた。
しかし、気づいてみれば当たり前にに単純なことだが、「成長する」というのは、言ってみれば、「大人になる」ということだったのだ。大人。こんなときには、こうするものだ、ということについての判断が正しくできる人。ミスをしたときにはどういう言動をとるべきか。どういう態度をとるべきか。平時であっても、相手の気持ちを斟酌してどのように振る舞うべきか。課せられた役割や責任に対して、どのようにそれを果たしていくのか。それをきちんと自前で判断できる人間になりなさい、ということだったのだ。
私が就職活動当時(うさんくさく)思っていたような、ビジネスパーソンとして<最適化>しなさい、という意味では全然なかった。仕事を通じて、人と関わり、役割と責任を引き受け、それを通じて「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が正しくできる「大人」になりなさい、という意味だったのだ。
ここに初めて私は仕事というものの本質的な意味を理解した。人は仕事を通じて人と関わり、役割と責任を持つことで、大人になるのだ。会社に対する貢献だとか、生産性だとか、利益だとかは、その副産物にすぎない。会社とは、そんな「大人」たちが共通の目的を設定して、それぞれ役割を果たすことで、一人ではできない大きな何事かを果たしている組織なのだ。
そして「大人になりなさい」という要請じたいは、個人の価値観にはまったく関係のない、なんというか、社会で生きる人間として根本的かつ最低限の要請にすぎない。そりゃそうだろう。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」ができない人ばかりだったら、社会ってものがそもそも成り立たないだろう。
そして焦った。私は今年で27歳になるが、まだまだ全然大人になっていない。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が、全然できていない。そんな半人前の状態で、気づかないまま人生ここまで来てしまった。本来4年前の就職活動を通じて、社会に出るときに解決しておくべきだった「宿題」が、まだ今になっても残っている。
今回の件は学びが大きかったが、それにしても「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」なんて、どうしたら「正しく」できるようになるのだろう、という問いは残る。結局「正しさ」は人によって違うから、「分別」もある価値観を含まざるを得ないことになるのかもしれない。が、この4年間働いてきた肌感覚で言うと、「分別」というものには、共通解がある気がする。
とにかく分別ある大人に近づくべく、明日も会社に行く。針の筵だけど。上司が口きいてくれないけど。5時起きだけど。
以上はねゆきでした。
*1:こんな光景が、全国の会社組織のあちこちで見られるかどうかは分からないが、私は半年に一度くらいは本格的な針の筵に座っている。とにかくミスや失敗は、「こんな無能で恥ずかしいことをするのは世界で自分だけだ」と思うからつらいし、またそれを認めたくないがためにいろいろ拗れていくのであって、「まぁこういうことって人生では(この世界では)よくあるんだろう」と俯瞰すればそんなにつらくはないし、素直になれるし拗らせずにすむ、というのは私の短い会社処世から得た知恵である(そして怒る人は「お前みたいなやつは、そうそういないぞ!」と言って怒るが、そんなわけはない)。あとは時間が解決してくれる。
【読書】パウロ・コエーリョ『11分間』
どんな本を読むの?
休日は何してんの?
…(夕方近くまで寝ていて、起きたら出かけて、本屋さんで閉店間際までぶらぶらして、その後は)本を読んだりとか。
へえ、すごい。どんな本読むの?好きな作家さんとか、いる?
… … …いや、わりと何でも。
パウロ・コエーリョ『11分間』
- 作者: パウロ・コエーリョ,平尾香,Paulo Coelho,旦敬介
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2004/02/29
- メディア: 単行本
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
〈私たちは涙の谷にいるのよ〉
「自分の好きでないことをやっているのだ。…自分の貴重な体と貴重な魂を、決してやってくることのない未来のためと銘打って差し出しているのだ。…あともうちょっと待つ、もうちょっと稼ぐ、自分の欲望の実現を後回しにする」
【読書】他人の脳のかけらをつなぐには~藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』
藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』を読みました
- 作者: 藤原和博
- 出版社/メーカー: 日本実業出版社
- 発売日: 2015/09/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (2件) を見る
都会のいいなぁと思うところが1つだけあって、自宅から地下鉄で15分も移動すれば大きな書店があるところ。
休日のたびにジュンク堂に通っている気がします。
この本も、ジュンク堂の話題本コーナーに平積みになっていて、手に取りました。
この手の読書論の本は、わりと読みます。
読書論の本って、ざっくり言うと「本を読むといいことがあるよ」と言っているものが多いのですが、おそらくそれを読む人は、私に限らず、そもそも最初から本が好きで普段から読んでいるんだと思うんですね。
(普段本を読まない人が、いきなり読書論の本を手に取って読書に目覚める…ということケースは少ないと思うのです)
つまり、本を読む人が、「本を読むといいことがあるよ」と言っている本を、うなずきながら読んでいるのです。
何だか不思議ですね。
どうして本を読むのだろうか
この本でも引用されていますが、今や1ヶ月に1冊も本を読まない人が47.5%に達したとのこと。
つまり2人に1人は本を読まないのです。それでも社会は回るし、当然生きてもいける現状。
それでは、どうして本を読むのだろうか。なんで私は本を読むんだろう。
そもそも最初から本を読むタイプの人が、わざわざ読書論(「本を読むといいことがあるよ」)の本を読む動機としては、この問いの答えを求めて…という部分が大きいのではないでしょうか。
もちろん本を読むのに理由はいらないと思います。当たり前のように読むでしょう。それが自然で疑問の余地はありません。
本を読むことは手段ではなく、目的そのものであるので、特に理屈を語る必要はない、という思いもあります。
でもたまに(どんなことにも合理性を求められる時代ですので)ふと(本を読まない人に聞かれたときなど)本を読む理由について、まじめに考えてみることもあるので、そんなときに(本読みの)人は読書論を読みます。少なくとも私はそう。
私が本を読む理由
私が本を読む理由は、今思いつく限り、大きく2つあります。
ひとつは、自分の中にもやもやしていることを、本が言語化してくれるからです。
本を読んでいると、「そうそう、そうなんだよ!私も前からそう思っていたのよ!」と激しくうなずいてしまうことも少なくないですね。
ただそれは、本を読むまでは「言葉になっていなかった」ので、正確には「思っていなかった」のですけれど、
混沌としたものが言語化されて、形と名を与えられ、最初からそこにあったことになり、「前からそう思っていた」ことになるのです。
そういった体験を求めて、混沌としたものに形と名を与えてくれそうな本を選んで、読むのです。
もうひとつは、本を読むことで、自分の中に新しい引き出しができるからです。
引き出し、というのは、新しい視点であったり思考回路であったり、知識であったりします。
これは(ここへきてようやく本の話に着地できるのですが)、この本(『本を読む人だけが手にできるもの』)と大きく関係してきます。
たとえば著者は、次のように述べています。
読書とは、「他人の脳のかけら」を、自分の脳につなげること
本は作者の構想や思考が詰まっている「脳のかけら」なので、それを読むことは自分の脳に他人の脳をつなげることだ。
現代は読書によって、レゴブロックのように他者の思考や見方を取り入れることで、独自の納得解を組み立てていく「情報編集力」が求められる。
そのためには、習慣化された乱読が効果的である…というのがこの本の要諦です。
その考え方自体は、私もおおいに賛成するところです。
しかし残念ながら、他人の脳のかけらをつないだだけではどうにもならない、というのもまた事実ではないでしょうか。
「読む」だけでは足りないので
私は、著者いうところの「他人の脳のかけらをつなぐ」行為が好きですが、実際それだけではどうしようもないことも身に染みて分かっています。
またその証拠に、この本に長く引用される著者の書評はあまり面白くありません(!)「他人の脳のかけら」をつないだだけの書評は面白くないのです。
この本の中でも、グーグルとアップルの本についての著者自身の書評を長大に引用した部分が最もつまらなく何を言いたいのか分かりません。
(リクルート前後や民間校長時代の著者の実体験のくだりは面白いし興味深いのに)
そもそも「本を読めば読むほど見識が広がる」のだとしたら、今頃私はもうちょっと賢くてまっとうな人間になってるはずじゃあないですか(笑)
ただ読むだけでは身につかない、血肉化しない。
他人の脳のかけらをただつないでいっても、それは「他人の脳のかけらの集積」にすぎず、自分の脳ではないのです。
それはゴミだし、ゴミは頭の中に残らない。そういうものではないでしょうか。
つなげた他人の「脳のかけら」を完全に消化し、自分の血肉とするには、おそらく「読む」行為だけでは足りないと思います。
それについてのヒントも、この本の中にありました(読書論は自己完結したビオトープなのです。すばらしいですね)
そこから、自分の意見を書いてみるという、つたない作業が始まる。
最初は2~3行のメモにしか過ぎなかったものが、やがては1000字程度(A4で1枚くらい)の雑文を書くようになった。
(中略)
この、だれに頼まれたわけでもなく書き続けたエッセイが70編近くになった。
その限られた30万時間の間に、どのようなインプットをして、どのようなアウトプットをしていくのか。
人生を生きるとは、つまりそういうことである。
そう。「他人の脳のかけらの集積」を自分の脳にする=読書によって得た思考や見識を血肉化するには、自ら「書く」というアウトプットの作業が必ずセットで必要なのです。
本を読み、それについて書く。それによって自分の見識を広げ、考えを広げていく。
ぐだぐだなってきましたが、それが本を読む理由、ということです。
やはり本を読むのは大切なことですね、うんうん(完結)
個人的には、(他の多くの読書論の本と同様)巻末の必読書リストに最も魅力を感じました。
こちらからもインスピレーションを受け、また何冊か読むことになると思います。
この人短い書評は別に悪くないけれど、あの長い書評のつまらない感じは何なんでしょうね。私だけ?
以上はねゆきでした。
Hard Mode My Life ~大手転職エージェントに登録してみた~
ご無沙汰からのいきなりですが、このたび大手転職エージェントに登録しました。
今回上司にどんなひどいことを言われてそうした行動に走ったかは、今日はとりあえず書きません(笑)
登録からあれよあれよと話が進んで、今日実際にエージェントの人から電話がかかってきました。
緊張しながら、15分くらい話して…
で、結局、「じゃ、今んとこ、とりあえず転職活動しないね」という話にまとまりました。
その電話面談中、エージェントの人は「まぁ、ご自身でもう薄々お気づきかとは思いますが…」という感じで話を進めていましたが、いやもう全然お気づきじゃなかったですよ。無知なもので。
とにかく、言われて初めて「そういえば、そうじゃん!」ということが多くありました。
なので、備忘録もかねて書いておきます。
私の「お気づきじゃない」程度があまりに浮世離れしていて誰の役にも立たない可能性がかなりありますが、それについてはご容赦ください。
①Uターンはハードルが高い
もともと実家が東海地方なので、Uターンしたいなー、という気持ちが漠然とありました(現在は北海道に住んでいます)。
実家に戻るつもりはあまりありませんが、北海道でずっと一人で生きているのも寂しいので、せめて東海・北陸・近畿とか、地続きのところに帰りたいなぁと。
家族も友人もみんなそのへんにいるし…と軽い気持ちでUターンの希望を伝えました。
でも、よく考えてみれば分かることですが、Uターンってめちゃめちゃ初期コストがかかるんですよね。
まず面接に行くのに交通費がかかります。面接は1社につき2回なので、札幌から東海地方の企業を1社受けに行っただけでも2回往復14~5万はかかる。
それに引っ越しの費用なども考えると、初期コストとして60万くらいかかりますよ、と。
また、平日に本州に面接を受けに行かなければならないとなると、現職のままでは時間の確保も難しい。というか平日に休みなんてとれっこない。
もろもろ大変であるので、企業の書類選考のハードルも上がりますよ、という話でした。
つまり、北海道って、1回就職して住んでしまうと、なかなか脱出が難しい…という。
就職のときは半ばヤケになっていたので考えていませんでしたが、「(北海道から本州に)戻りたい」と思うと大変なようです。
なかなかハードですね。
②文系=「接客」「営業」「事務」
自分の現職は学習塾で、「塾講師は潰しがきかない」と言われているので不安だったのですが、そんなことはない、とのこと。
Uターンを諦めれば、転職先はそんなに苦戦せず見つけられるでしょう、という感じでした。ただし転職先としては営業職が多いとのこと。
自分としては、転職をするとしたら「接客」「営業」の仕事は避けたいと思っていたのですが、そうなると文系の転職先は必然的に「事務」になるようで、エージェントの人もしきりに「事務への転職は…」という話をしてました。
別に事務職に転職したいわけではないのですが…
つまり、専門職でない文系の人って、「接客」か「営業」か「事務」のどれかは最低限できないと生きていけない…ってことか…
接客も営業も事務も取り立てて得意そうな感じがしません…となるとそれは自分の能力不足の問題ってことかな。
なかなかハードですね。
例外は、「システム系の勉強をしていた人はSEで内定が出ていました」…シ、システム??
なかなかハードですね。で、システムって何?(安心してください、エージェントさんには聞きませんでした!笑)
③転職活動は3ヶ月でやるもの
学習塾業界では、「年度末退職」が最低限守るべきスジです。自分もそこはスジを通すつもりです。
そして今から活動を始めて今年度末に転職…というのはあまりに急というか、無理な日程のように思えたので、来年度末での転職を…と考えていたのですが、
「来年度末の転職だったら、来年の今頃にまた来てください」と言われました。
転職活動は3ヶ月くらいでやるものなので、来年の今頃も同じくらいの景気だったら、1月から転職活動をしても平均1ヶ月くらいで内定出ますよ、とのこと。
それで結局「今んとこ、とりあえず転職活動しないね」という話にまとまったわけです。
そもそもスケジュール感がまったくわかっていませんでした。エージェントの人にも、まったく相手にされていない感じが、ひしひしと伝わってきました(笑)
なかなかハードですね。
まとめ It's too hard for me to live・・・
まとめっていうか、「ハードですね」としか言ってない。それしか感想がありません。
これちょっと、やばいかも…?と、浮世離れした私でもさすがに思いましたは。
新卒で北海道にぽーんと来てしまったが、よくよく後で考えてみたら、引き返すことのできない道だった。
今まで「学習塾を最初の就職先として選んだこと」が一番の失敗で、それによって選択肢が狭まっているのだと思っていたけれど、そういうわけでもなく。
まず北海道に来てしまった、ということで、本州に戻ることが難しくなってしまった。
また職種については、文系で専門職でないならば、「接客」「営業」「事務」のどれかにだいたい収まるので、そもそもそんなに広い選択肢がなかった。
文系で、「接客」も「営業」も「事務」も得意じゃなさそうで、「システム系」が何のことか分からない私にとっては、生きることがそもそもハード…!
そうなってくると、現職で抱えている問題を何とかして、今の会社で長く働けるように頑張るのが、結局は一番カンタンなのかもしれません。
ただ、今までぼんやりとしていたことが、15分くらいお話しを聴いたら具体的に分かって、なかなか有意義だったかとは思います。
今日得た情報を踏まえて今後の生存戦略を立てていきたいと思います。
以上はねゆきでした。
【読書】「ゼロ秒思考」をやってみた。
新年明けましておめでとうございます。
メモを書く際は、A4用紙を横置きにし、左上にタイトルを書いて下線を引く。
しかも1ページにびっしり書くのではなく、わずか4~6行書いて終わりにする。
右上には年月日を入れる。
初心者に1ページ1分はきつい
タイトルのつけ方が鍵
近況~聞かなかったことにはできない言葉
「聞かなかったことにはできない」
人でなしは誰なのか
【読書】『反応しない練習』読書メモ
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
- 作者: 草薙龍瞬
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
- 発売日: 2015/07/31
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
たとえば、朝の通勤ラッシュで「今日も混んでいるな」とゲンナリする。これは、心を憂鬱にさせる反応です。心ない相手の態度にイラッとする。これは、怒りを生む反応です。(中略)人と会うときも、仕事をしているときも、外を歩いているときもー心は、いつも反応しています。
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのだ。
「自分はこう考える」という判断や、解釈や、ものの見方をいっさい差し引いて、「ある」ものを「ある」とだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きの「ニュートラル」な目で、物事を見すえることだけを意味しています。
「正しい理解」に「反応」はありません。ただ見ているだけです。
「妄想は妄想にすぎない」
「妄想には際限がないし、根拠もない」
「わたしはこれ以上、妄想を追いかけない」という立場に立ってしまうのです。