はねゆきノート

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【雑記】愛せよ、人生において良きことはそれだけである

愛せよ、人生において良きことはそれだけである


先のエントリにも書いた通り、小説『本日は、お日柄もよく』に引用されたジョルジュ・サンドの名言に、心を打たれていました。

そうか、愛か…!

と。
大変シンプルで、かつ陳腐なことですが、「愛」というのは大切で、人生の問いや悩みの答えになりうる、と。

たとえば、自分自身の邪悪さについて。私は悩んでおりました。
仕事をしていて、悪意もなく、害意もないのに、結果的に邪悪になってしまう…ということがあるじゃないですか。ないですか?
それはおそらく、純粋に自分自身の内から湧き出る邪悪さというよりも、外部からもたらされた理不尽な仕打ちや邪悪さに対する怒り・憎悪といった負の感情を、私の中で堰き止めたり、浄化したりすることができないためにそうなるわけです。
そうした邪悪さは、私を通じてまた世界を循環していきます。具体的には、ただ誰かに八つ当たりをするというだけでなく、無意識のうちに自分自身がされたことを他人にしたり、自分がされているのと同じように誰かの権利を侵害したり迫害したりするわけです。

ではなぜ私が、そんな邪悪さの水路のような存在になってしまっているかというと、それはひとえに仕事ができないせいなのです。そして自分自身の弱さのせい。おそらく、私は悪意のある邪悪な人間だというわけではなく(そんな人間はなかなかいません)、ただ鈍くさくて弱くて屈折した人間であるというだけなのです。スマートで強くまっすぐで人間であれば、どんな邪悪な仕打ちにあっても、自身は邪悪さの水路にはならないわけです。

そして、生まれつき邪悪な人間などそうそういるはずもなく、世の中の悪のほとんどは、ちょうど私のような、悪意も害意もなく、ただ水路のように、自分が受けた邪悪を世界に循環させてしまう弱い人間によって為されているのではないでしょうか。「私は被害者なのだ」「これはこれでどうしようもないのだ」と思って漫然と邪悪さを循環させていると、いつか下流の人に訴追されてしまいます。そのとききょとんとしても遅いのです。
つまり、弱さ=悪なのです。
なので、私はいかにしてこの邪悪さの循環を自分のところで断ち切れるか、ということに昨今悩んでおりました。
いや、まじめに。

でも「愛せよ」のフレーズで、解が与えられたような気がしました。
目から鱗が落ちる思いでした。
そうだ邪悪さに打ち克つには、愛しかないじゃないですか!!(新興宗教みたいになってる)
人間は不思議なもので、必要なときに必要な言葉に出逢うようにできているのであります。

さっそく、愛、という言葉を辞書で引いてみました。三省堂国語辞典第6刷です。


あい【愛】①損得ぬきで、相手につくそうという気持ち。②(男女の間で)好きで、たいせつに思う気持ち。③ものごとをたいせつに(好きだと)思う気持ち。


愛する、で引くと、「愛の気持ちをおこないにあらわす」とあります。

今まで、愛が足りなかったんだなぁ、と。
なにか誰かに損得ぬきでつくそうとしたり、たいせつに思ってそれをおこないにあらわしたり、といったこと。自分をひとまずおいて他のものを守ったり、たいせつにあつかうことが愛だとしたら、邪悪さの水路になってしまう私には愛が足りず、愛によって邪悪と闘う心が足りなかったのです。
いやむしろ、邪悪さを循環させず、自分自身の中で浄化する力こそ愛なのかも…!

世間に私のような悩みをもつ人間がいかほどいるか分かりませんが(村上春樹の小説では死ぬか行方不明になるタイプです)、愛することの大切さをもって本日の締めと致します。

愛せよ、人生において良きことはそれだけである

以上はねゆきでした。