はねゆきノート

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【雑記】成長すること、分別をもつこと

この文章は、「成長したい」という気持ちと、そして何より壮大かつ初歩的なミスをして針の筵なうえに上司に口もきいてもらえない現状への慰めとして記しました。

「人としてどうなのか!」と怒られている全国の同胞の皆さん*1 自分自身の人間的伸びしろを信じて一緒に頑張りましょう(笑)

 

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就職活動していた(そしてあまりうまくいっていなかった)学生時代の終わりかけ。私は「成長」という言葉が嫌いだった。

言ってみれば、「成長」アレルギー。

就職活動中を通じてそこここで聞いた「成長」という言葉には、「未来のあるべき姿は決まっていて、その理想に近づく」といったニュアンスが感じられた。たとえば会社が社員に対して「君の<成長>に期待します」という言うような場合、理想の社員像がすでにあり、いかにそれに近づいていくかが期待されている。このように「成長」はそれ自体ある価値観を含んだ言葉なのに、そのことが黙殺されて、「成長」そのものが無条件に善いことであり、若者が犠牲を払っても求めるべきことのように盛んに言われるのが嫌だった。

つまりこういうことだ。会社の「理想の社員像」に近づくことが、私の人生にとって本当に価値のあることなのか?単に「最適化」と言うべきではないのか?「<成長>に期待する」などと言ってほしくなかったのだ。単に「社員として、会社に<最適化>することを期待する」と言えばいい。

私がどうなるべきかは自分で決めることであり、それを<成長>などという枠組みで示される筋合いはない、と、そう思っていた。

 

ところで最近、かなり初歩的なミスで大騒動を引き起こした。今までの信頼(そもそもあまりない)を一気に失ったあげく、かつその際の言動や態度から(本人としてはかなり殊勝にしていたつもりが)さらに顰蹙を買い、「人としてどうなのか」「真面目にやっている人間に謝れ」と呼び出しでかなりがっつり怒られた。

そして最後に、優しい顔をして(だいたい会社で「人として」と怒る人はみなそう言うのだが)君のためを思って今日は厳しいことを言ったのだ、と言った。伸びしろがあると思いますよ。私たちは君の<成長>に期待する。

 

とにかく私はこの人の言葉に打たれた。彼女は私にめちゃめちゃ怒っていたが、同時に、私のことを真剣に何とかしようと思ってくれていた。そして、久々に<成長>という言葉を聞いた。今また<成長>が希求されている。自宅に帰って、辞書を引いた。

 

「せいちょう【成長】からだや心がそだって、一人前の状態になる(近づく)こと」

 

今まで「成長」という言葉は、ある価値観にコミットすることを賛美する押しつけがましい言葉だと思っていた。しかし(最初から辞書を引けば分かったことだが)この語そのものには、「大人になる」という程度の意味合いしかなかったのだ。

ついでに、「大人」も辞書で引いた。辞書というのは思考の道具としてかなり有能である。

 

「おとな【大人】①一人前に大きくなった人。②分別のある人。」

 

「一人前」で引くと「一人のおとな」とあり、堂々巡りになる。「分別」も引いた。

 

「ふんべつ【分別】こんなときには、こうするものだ、ということについての判断(の能力)」。

 

そうだったか、と思った。

おそらく何かの就活本や就活サイトだと思うのだが、就職活動中は、やたらと「成長」という言葉が氾濫していて、うまくいっていなかった私には人生に対する呪詛のようだった。また、「成長」信者に限って到達点を言明しないのも癪だった。私たちは「成長」して、いったいどこにたどり着くのか。何者になるのか。それは自明のこととして説明されず、私は「成長」という言葉にさらなる不信感を抱いた。

 

しかし、気づいてみれば当たり前にに単純なことだが、「成長する」というのは、言ってみれば、「大人になる」ということだったのだ。大人。こんなときには、こうするものだ、ということについての判断が正しくできる人。ミスをしたときにはどういう言動をとるべきか。どういう態度をとるべきか。平時であっても、相手の気持ちを斟酌してどのように振る舞うべきか。課せられた役割や責任に対して、どのようにそれを果たしていくのか。それをきちんと自前で判断できる人間になりなさい、ということだったのだ。

私が就職活動当時(うさんくさく)思っていたような、ビジネスパーソンとして<最適化>しなさい、という意味では全然なかった。仕事を通じて、人と関わり、役割と責任を引き受け、それを通じて「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が正しくできる「大人」になりなさい、という意味だったのだ。

ここに初めて私は仕事というものの本質的な意味を理解した。人は仕事を通じて人と関わり、役割と責任を持つことで、大人になるのだ。会社に対する貢献だとか、生産性だとか、利益だとかは、その副産物にすぎない。会社とは、そんな「大人」たちが共通の目的を設定して、それぞれ役割を果たすことで、一人ではできない大きな何事かを果たしている組織なのだ。

そして「大人になりなさい」という要請じたいは、個人の価値観にはまったく関係のない、なんというか、社会で生きる人間として根本的かつ最低限の要請にすぎない。そりゃそうだろう。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」ができない人ばかりだったら、社会ってものがそもそも成り立たないだろう。

 

そして焦った。私は今年で27歳になるが、まだまだ全然大人になっていない。「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」が、全然できていない。そんな半人前の状態で、気づかないまま人生ここまで来てしまった。本来4年前の就職活動を通じて、社会に出るときに解決しておくべきだった「宿題」が、まだ今になっても残っている。

今回の件は学びが大きかったが、それにしても「こんなときには、こうするものだ、ということについての判断」なんて、どうしたら「正しく」できるようになるのだろう、という問いは残る。結局「正しさ」は人によって違うから、「分別」もある価値観を含まざるを得ないことになるのかもしれない。が、この4年間働いてきた肌感覚で言うと、「分別」というものには、共通解がある気がする。

 

とにかく分別ある大人に近づくべく、明日も会社に行く。針の筵だけど。上司が口きいてくれないけど。5時起きだけど。

 

以上はねゆきでした。

*1:こんな光景が、全国の会社組織のあちこちで見られるかどうかは分からないが、私は半年に一度くらいは本格的な針の筵に座っている。とにかくミスや失敗は、「こんな無能で恥ずかしいことをするのは世界で自分だけだ」と思うからつらいし、またそれを認めたくないがためにいろいろ拗れていくのであって、「まぁこういうことって人生では(この世界では)よくあるんだろう」と俯瞰すればそんなにつらくはないし、素直になれるし拗らせずにすむ、というのは私の短い会社処世から得た知恵である(そして怒る人は「お前みたいなやつは、そうそういないぞ!」と言って怒るが、そんなわけはない)。あとは時間が解決してくれる。