はねゆきノート

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稚内旅行の記憶、あるいは『星の巡礼』

今週のお題「今年見に行ってよかったもの」

 

今週のお題:「今年見に行ってよかったもの」について書こうと思うのですが、その前に。

パウロ・コエーリョ星の巡礼』を読みました。

星の巡礼 (角川文庫)

星の巡礼 (角川文庫)

 

 教団の最後の試験に落第し、「剣」を手にすることができなかったパウロ。

パウロは自分の剣を手にするため、案内人ペトラスに導かれ、サンチャゴに続くスペインの巡礼の道を旅していきます。道中、人生の道しるべとなる実習や、恐ろしい敵との戦いに立ち向かいながら、パウロは人生の偉大な秘密について学んでいきます。

 

現代日本の感覚からすると多分に神秘主義的な部分も多いですが、私は好きでした。

失意と挫折のうちに旅が始まる、というのが特に。自分の今の生活も、ある意味では、失意と挫折のうちに始まった旅の途中、のような気がしています。

 

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旅といえば、今年はシルバーウィークに放浪旅をしました。稚内・利尻・礼文を回りました。3日前くらいに思いつきまして、急遽安宿を取って。通勤の時に使っているショルダーバッグに下着の替えと現金とスマホと本を入れて。2泊3日した気がします。

稚内で何をしたかというと、観光は特にしませんでした。

その代わりレンタサイクルでママチャリを借りて、稚内駅から宗谷岬まで往復しました。

片道30km、往復で60kmあって、午後に出発して夕方に宗谷岬について、夜中に何とか稚内に帰りつきました。6時間かかった。死ぬかと思いました。

一応写真も撮ったの。

 

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 地面が広い…

普段運動をしないので、その日の夜から脚に激痛が走り、立ち上がることも座ることもできないありさまで…ちなみに翌日はその状態でフェリーに乗って利尻に行ってまたレンタサイクルで10kmくらい走ったのです。(もちろん突然通勤鞄一つで稚内に行って宗谷岬まで激走するような女は、男性にはあまりもてません。)

 

ちなみにこちらは利尻富士です

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なぜそんなことをしたのか?

…分からない。

就職したときから私の生活は「失意と挫折のうちに始まった旅」のような様相を呈してきたわけですが、それくらいの頃から一人旅を好むようになり、ふらりと出かけてはそういう突拍子もないことをするようになりました。旅をするといっても絶対に観光バスなんか乗りません。計画もほとんど立てません。旅先で、直感に任せて、自分で決めた他人には到底理解できないような試練に挑むことが好きなのです。

 

どちらかというと、旅先では、身体を酷使したり(6時間自転車をこぎ続けるとか)五感を研ぎ澄ませたりすることを意識します。

それは、普段あまりに「頭でっかち」なので、バランスをとるためにそうするのだと思います。何というんでしょうか、「身体の声を聴く」というんでしょうか。

何もない原野の一本道を単調にこぎ続ける。脚はすぐに痛くなり、変な前傾姿勢で延々ママチャリをこぐ。雨が降る。風が吹く。夜になる。ライトをつけるとペダルは重くなる。紫色の雷が、低木で覆われた丘を照らす。市街はなかなか見えない。根源的な恐怖を感じる。ようやく市街にたどり着く。そこには安堵も達成感もなく、驚くほどあっけない。ただ疲れ果てている。脚の痛みだけがある。

その間、普段ぐだぐだと悩んでいるような、人間関係のことや仕事のこと、人生のことは脇に追いやられる。そんな経験をしてようやく、身体と精神のバランスを取り戻して「休暇」になった、と思えるようなんですよ。

 

それが今年の旅の思い出でした。見てよかった場所?宗谷岬には何もなかったですね。

誰か侍の像がありました。よく覚えていませんが。

自転車をこいでいるあいだ、私の左側には常に海があり、右側には常に丘がありました。

そんな島嶼部の沿岸を延々走っていると、身体の左右の感覚に違和感が出てきます(左側は海、右側が丘だと、何だか右側が常に重いんですよね)。帰ってもしばらく、そんなアンバランスな左右感覚が残っていました。その感覚は今でも思い出すことができます。

あとは脚が痛かったです。

 

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話を『星の巡礼』に戻します。

読んでいて印象的だったのは、〈敵〉に関する部分でしょうか(あまりに印象的すぎてモスバーガーのソースをこぼしました)

 

「敵は、われわれを傷つけることができると知っているからこそ戦いに参加する。そして彼は、われわれが誇りを持って、ここは自分の一番強いところだと思っているところを傷つける。戦っている間、われわれは常に自分の最も弱いところを守ろうとする。そして、敵は無防備な場所、つまり、一番自信を持っている場所を攻撃してくる。そして、われわれは決して許すべきではないことを許してしまって、結局負けてしまう。われわれが敵に、どのように戦えばよいか、選ばせてしまうのだ」(p218)

 

自分の強いところだと思っているところを攻撃されると、崩れてしまって、許すべきでないことを許してしまう…というのは、非常に鋭い洞察だと思います。

 

「敵はわれわれを成長させ、われわれをみがく」(p219)

 

私たちが旅に出るのは、<敵>と出会うためだ、ともいえるかもしれません。

もちろん日常生活を送っていれば、探しに出るまでもなく<敵>は自分の中に容易に見つかるものです。しかしそれと改めて出遭い直すために、わざわざJRで4~5時間をかけて旅をする。私は旅を好みます。旅行記も好むし『星の巡礼』も好きでした。

 

旅を終えて日常に戻れば、未着手の問題がまるまま横たわっていて、格闘の日々に舞い戻ります。旅によって何かが変わっただとか、進歩しただとか、成長しただとかはありません。ただ少し、バランスが変わっただけです。

そこが、小説の主人公とは異なるところです。

 

以上はねゆきでした。