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【読書】読書スランプと「意味なんてことは考えちゃいけない」~田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』

田口ランディさんの『できればムカつかずに生きたい』を読みました。

できればムカつかずに生きたい

できればムカつかずに生きたい


 唐突ですが、冊数をカウントしています。読んだ本の。
これは中高生の頃からずっとそうしていて、別に何冊読んだから何ってことはないのですが、まぁ、習慣です。
カウントの条件は「読了」、つまり最後まで読むこと。なので、半分くらい読んでしまった本は、どんなにつまんなくても、惰性で全部読んでしまいます。カウントできないともったいないなと思って。 

さて、『できればムカつかずに生きたい』の話でしたね。
正直、途中から「早く終わらないかな」と思っていました。
文句があるなら途中で投げればいいのに、例のごとく「ここまで読んだら読了して冊数カウントしたいな」って気分になっちゃって。 


目がすべる、から、読書スランプへ

どんどん目がすべっていくんですよね。
で、頭に意味が入ってこない。全然何も感じない・意味をなさないまま、文字列だけが流れていって、はっと思って戻るんだけど、一生懸命意味をつかまえようとしても、結局その繰り返しで。
たとえば、 

言葉によって世界を創造しながら生きているのが人間で、言葉によって体験を獲得し、自分という個体に閉じようとする意識を、肉体から解放していく。 

「自分が無い」人は、自らの肉体の中に自分を閉じ込めて空虚化していく。 

こういう抽象的な文が、うまく自分の中で像をなさない。
「言葉によって世界を創造しながら生きている」、という表現はまだ分かるのですが、「肉体の中に自分を閉じ込めて空虚化」という表現が、比喩と捉えて具体化することもできないし、直観して意味を把握することもできない。
だから、何のことを言っているのかさっぱりぴんとこない。文脈を追っていっても然り。 
この程度の抽象度で意味が分からないだなんて恥ずかしいことだ、と自分を奮い立たせて読んでいっても、何のことを言っているのか分からない。それが何ページも続く。

 そのうえ、この本を読んでいるときにたまたま、福沢諭吉の小文を読んで。 
人生わずか五十年、稚き時に怠らば、老いて悔ゆるも甲斐なかるべし。 
 このフレーズがずっと頭の中リフレインして(笑) 

…人生は有限なのに、10年も前に書かれた、ちっとも共感できないエッセイを読んでいる意味があるのだろうか? 
しかし、いつ死ぬか分からないこの生において、読むに値する本とは一体何なのだろう? 

などという気分になってしまって、逆に何を読んだらいいか解らなくなって。 
この本以来、ちょっとした読書スランプなんですよね。 


 読書スランプと、「意味なんてことは考えちゃいけない」

 同じような「読書スランプ」経験のある人がどれくらいいるか分かりませんけれど、私はたまになります。 多くは今回のように、ぴんとこない本を惰性で読み続けたために、読書という行為自体に意味が見出だせなくなってしまい、次の本を選べなくなってしまう…という症状で、この間、活字への渇望はブログなんかを読んで満たします。
あとは、「この文章の意味が分からないなんて、恥ずかしいことだ」と思って、一生懸命読むんだけど、全然意味が分からない…ってときには、読書スランプになりやすいです。

でも、意味なんてもともとないのかもしれないですよね。
「意味なんてことは考えちゃいけない、意味なんてもともとないんだ」って(by村上春樹
先の文にしろ「言葉によって感覚・体験を誰とも共有せず、独自の世界に閉じ込もっていく」程度の意味なのかもしれない。それを、もっと深い意味があるのかもしれないと思って一生懸命読んだって、疲れてしまうだけなのかもしれません。

この記事を書いたことで、読書スランプが治るといいんですけれど。 

 以上はねゆきでした。