小説『怒り』感想戦
休日の前の夜に一人酒しながら小説を一気読みする至福。しかし感想戦をする相手もなく孤独。唯一人とかかわる職場に本読みはおらぬ残念至極。むしろ同僚に「キミは本の世界でしか人間を知らないんだなーと思うよ、あたしは生身の人間しか知らないけどさ」とまで言われる始末。
いや、そのディスり、人生2回目…
あーた本の世界しか知らないでしょ、というディスりね。
そういうこと言うやつに限って自分はだいたい本を全く読まなくて、本を読んだって何にも分かりゃしないと思っていて、語彙が異常に乏しいくせに感受性だけは鋭敏で、言葉にならない何かで人間の本質を捕捉してきて、まぁすごいなぁと思います。
さてさて閑話休題。『怒り』を読みました。
『怒り』はこの前映画観てきてて。原作は原作でよかったです。
映画と原作の相違
映画はだいたい原作に忠実で(刑事視点が少しカットされたり、登場人物が減らされたりはしてましたけれど)原作を読んでいると、「確かにこんなシーン、あったなぁ」と頷くことばかりで。特に大切な台詞はほとんど生かされていて、映画を観てから原作を読むと、名場面集、名台詞集、名言集を読んでいるように感じました。
「俺はお前を疑っている」と疑っている奴に言うのは、「俺はお前を信じている」と告白しているのと同じことなのかもしれない。
けだし名言ですね。
といっても映画の劣化版という趣はまったくなく。嗅覚や手触り、一人一人の心情のひだまで緻密に折り畳んで書き込まれた原作、それを鮮やかに音楽的にまとめた映画、どちらも名作だなぁと思いましたわ。私は映画観てから原作読んだので。(やっぱり、一般的に映画を観てから原作を読むほうが心は平和ですよね。逆だとなかなかね)
※ここからネタバレします。
映画と原作の一番の相違は、やはり沖縄編のラストシーンかなと。
映画では、辰哉が田中を刺したあと、「信じていたのに許せなかった」という供述をした…というまとめ方をしてて。それになんとなく違和感がありました。
というのも辰哉が田中を刺すシーンの、辰哉役の佐久本宝くんがものすごい迫力の演技をしてたので。あの対決シーンに対して「信じていたのに許せなかった」という動機の説明はやや薄っぺらいな、と感じたわけです(そのへんは前回記事にも書きました)。
でも原作を読んで気づいたのですが、辰哉が田中を刺したあと、廃墟の落書き(泉ちゃんの暴行事件を揶揄する落書き)に言及しないで、泉ちゃんを庇っているわけですよね。それで辰哉は漠然とした供述しかしないわけです。そうだそうだよね、と納得。映画を観たときに気づかなかったわ。
原作ではさらにそこから、泉ちゃん自身が葛藤のあげく暴行事件を告白して、辰哉くんの罪を少しでも軽くしようとする…というくだりに繋がっていくのですが、映画版ではここはカット。
実は映画を観たとき泉ちゃんてよく分からない人だったんですけれど、原作読んでようやく、ちょっと理解できました(だって映画版の泉ちゃん、辰哉くんが田中を刺して捕まって浜辺で絶叫してましたけど、結局何かんがえてんだかよく分かんなかったんですもの)。
ああ…原作では同情したふりすんなよ、って言うのは辰哉なんですね(あれ、映画では田中が言ってましたよね)…それを思えば、森山未來と佐久本宝のシーンあれやっぱり天才ですね。
うーん。生身の人間とも感想を言い合いたい。
そして私は、ディスられてもやはり、優れた映画を観たり、本を読んだりしたことで、またひとつ人間というものを知った…と信じてやみません。
以上はねゆきでした。