はねゆきノート

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今週のお題「私がブログを書く理由」

そりゃあ「自分が読むため」でしょう。

今週のお題「私がブログを書く理由」についてです。

たとえば、持ち歩いていた本を、通勤途中に読み終わってしまったとしましょう。
さらに、読者登録しているブログの最新記事もあらかた読み尽くしてしまった。ネットニュースもさほど興味を引くものがない。
とにかく、ただたた圧倒的に手持ちぶさたである…という状況に陥ったとしましょう。
待ち時間や通勤時間やなんかでね。
そしたら、何をするか。

私の場合だったら、まず日記(常時持ち歩いている)を読むかもしれないな、って。
そして次にブログを読みます。
過去の自分の書いたものを読むと、すごく興味深かったり、「うんうんそうだよね!私もそう思ってたの!」と激しく同意してしまったり、という部分が多くて…って、そりゃあ自分で書きましたからね!
気づきや学びを書き、後日それを読んで共感する。自給自足。

ここで、「ただ自分が読むだけが目的であれば、アナログの日記帳(もしくは、オフラインのエバーノートやライフログ)でもいいではないか」というツッコミが聞こえてきそうですが。
確かにそうです。というか、もちろんアナログの日記もつけています。ブログには(いくらほとんど読まれないとはいえ)書けないような、ざらざらドロドロしたことや、名指しの悪口(笑)は日記に書きます。

でも、不思議なことに、後で読み返して、共感できる度合いが高いのは、ブログです(アナログ日記を読み返していると、「お前何言ってんの、反省しろー!」と過去の自分を殴りたくなる率の方が高いです)。

たぶんそれは、仮想の読者がいて(実際にはほとんどいませんが)
ある程度は一般化の作用が働くので(名指しの悪口や内輪ネタを避けるとか)
「未来の自分」というある意味「他人」が読んでも共感する(しかも基本的には同じ人間)ということではないかと。

…自分で書いてて思いましたが、孤独ですね。そして暇人。
さらに言うと、キモいですね。
「自分」のことばっかり考えてる「自分」大好き人間に見えると思います。実際にそれは否定できませんし。

でも私のように、家族も友達も恋人もおらず、職場以外のコミュニティに属さず、都会の雑踏にまぎれて一人暮らしている未婚の人間が、「自分」について考えない日なんて、あるんでしょうか。


そうそう、孤独といえば、こんな本を読みましたよ。

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)



孤独に価値があるもないも、現に孤独なんだから仕方ないじゃんねえ。

ぐだぐだですが(笑)

以上はねゆきでした。

【マンガ】《第2の刃》を磨くことの大切さ~『暗殺教室』

土曜は、ほとんど部屋に引きこもって『暗殺教室』①~⑲を一気読みしていました。
面白かったですよ(*`・ω・)ゞ

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

さんざん流行って盛り上がって、もはや完結している作品。今更感がありますが、感想を書きます。


《勉強》をカッコよく描いた作品

あらすじは、ご存知の通り。
名門中学で落ちこぼれのレッテルを貼られ、隔離された3年E組の生徒たちの前に、触手をもった生物(殺せんせー)が現れます。彼は「1年間3年E組の担任を務めること」「1年後に地球を爆破すること」「防ぐ方法は、3年E組のメンバーが、1年の間に彼を暗殺するしかないこと」を宣言。
個性豊かな生徒たちが、殺せんせーとともに、暗殺・学業・学校行事に打ち込んでいく中で、成長していく姿を描きます。

暗殺×学園もの…という奇抜なテーマ、意外性・工夫の凝らされたページ運び、緻密に計算された設定と伏線…などなどマンガとしての完成度の高さもさることながら。
このマンガ独特のすごいところとしては、「《勉強》をすごくカッコよく描いている」ところではないでしょうか。

というのも、暗殺や訓練といったバトルシーンに負けず劣らず、試験対策や授業・勉強のシーンに紙幅が割かれていて、それがこのマンガ独特かつ楽しいところだなー、と私は思ったんですよね。というか、すごく教育にいいですよね(笑)
殺せんせーは生徒たちを暗殺者として鍛えていきますが、と同時に、勉強の重要性もすごく強調しています。


《第2の刃》を持つこと

象徴的なのが、《第2の刃》の話。
第2の刃を持たざるものに、
暗殺者の資格なし!
とかって2巻で出てきて、以降全編を通してキーワードのひとつになります。
つまり、暗殺という「第1の刃」が失敗しても人生が切り開けるように、武器になるものを複数磨いておきなさい…ということ。

また、この物語では「優れた暗殺者ほど万に通ずる」といって、オールラウンダーになることの重要性も描いているんですよね。
長所を伸ばして才能を発揮して生かす道もある。でも本当に卓越した者は、オールラウンドに何でも取り込んで、何でも出来るように努力するんだ…というメッセージ。

こういうことって、教育において本当に大切なことだと思うんです。
確かに、個性を発揮し、長所を伸ばし、必殺技を鍛えて一点突破していくヒーロー物は読んでいてスカッとします。実際の教育でも、長所を伸ばす重要性が説かれがちです。日本の教育は横並び主義だからダメなんだ…なんて議論もよく耳にしますね。

でも結局、長所の発揮・一点突破で人生切り開ける人なんてごくわずかですよね。
そのときには他の武器がなければならない。もっというなら、あまりに極端に苦手なことがあっても人生厳しくて、苦手なりに最低限の形になってないとまずい(もしくはそのカバー法を見つけてないとまずい)ってことが現実にあるじゃないですか。
もちろん個性はガンガン伸ばしていくんですが、こういうバランスを取るのも「教育」の重要な役割のひとつかなって。だから受験で選択する以外の科目もしっかり勉強しないといけないし、勉強も勉強以外のことも等しく挑戦しないといけない。

…というのも、自分が、一点突破に失敗した人間なので、その後悔もあって。一点突破を挑んで失敗したら、ほんとにアンバランスな、欠落の多い、生きづらーい人間になっちゃいますよ(笑)

とにかく《第2の刃》って考え方はほんとに大事。バランス大事。
長所・才能を伸ばして第1の刃を磨くことと、それが失敗したときのために第2第3の刃を磨いておくこと。また、苦手なことも最低限基礎は作っておくこと。そのバランス感覚が大切なのです。

いやぁこんなに《勉強すること》《学ぶこと》《教えること》の本質を捉えたマンガが、かつてジャンプにあったでしょうか。


もうひとつ引用して結びます。

そもそも人に何かを教えたいと欲する時
大きく分ければ理由は2つしかありません
自分の成功を伝えたい時か…自分の失敗を伝えたい時
これもほんとにそうだなー、と思うんです。
このマンガを読んでて、本当に、現職についてよかったと思いました。
なんだか教育欲の刺激されるマンガでした。

以上はねゆきでした。

【読書】『ひらめき教室 弱者のための仕事論』

こんな本を読みました。
人気漫画『暗殺教室』の作者と、世界的デザイナーの異色の対談です。

 

ひらめき教室 「弱者」のための仕事論 (集英社新書)

ひらめき教室 「弱者」のための仕事論 (集英社新書)

 

 ちなみに『暗殺教室』は、この本きっかけで初めて読んでみたのですが、面白くてすっかりハマってしまいました。


 抽象思考の話①

松井さんの発想法や、漫画を連載する上での構成法・考え方など、興味深いポイントがたくさんありました。

中でも、こんな会話。

 

佐藤 連載を続ける上で、何を重要視しています?
松井 おもしろさから目を逸らさないことですかね。自分の漫画を見るとき、「本当におもしろいのか?」と薄目で見るんです。まつ毛がブラインド状になるぐらいまで、薄目になる。
佐藤 ぼやっと見る感じ?
松井 そう、焦点をぼやかして見るんです。情報量が圧倒的に少なくなるので、それでもおもしろければ、まあおもしろいだろうと考える。
佐藤 あ、その説明を聞いて、ピンと来ました。僕もアイデアを考えるとき、焦点を絞ると周りがまったく見えなくなるので、なかなか見つからないんですよね。ふわっと見る方がおもしろいアイデアが転がっていたりする。

読んだその時には、特に何も心に引っかからず、付箋もしていなかったのですが、
たまたま次に読んだ本に、同じような話が出てきていて。


しっかりと見えているもの(ピントが合っているもの)を、わざと目を細め、ぼんやりと見てみよう。
そうすると、そこにあるものを抽象的に捉えることができる。知合いの人を見ているときでも、目を細めてみれば、もう誰なのかわからない。
ただ、ぼんやりと、一人の人間がそこにいるとしかわからない。ときには、そういったぼんやりとしたものの見方が必要になるのである。
森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』)

 

先週末たまたま本屋で買った2冊の新書に、同じことが書いてあったので、少し驚きました。
意識して買ったわけでもないのに…。ただ、本を読んでいると、今の自分にとって必要なことがセンサーに引っかかりやすくなる、というのはあると思うので、「抽象思考」というのが今の自分にとってのキーワードなのかな、と漠然と思っていました。

そんな矢先に、交通事故に遭いました。(超展開ですね)


交通事故の話

仕事中、会社の車で移動していて、交通事故に遭いました。
見通しの悪い、信号のない交差点に入ったところ、右手からいきなり軽自動車が突っ込んできて…。
気づいた瞬間踏んだのですが、間に合わず。向こうもかわし切れず、こちらの自動車のフロントが相手車両の左側部に当たって、はねた形になり、相手の車は一回転して着地した…ように見えました。で、お互いにけがなし(会社の車が1台つぶれましたが)。
状況的には相手の一時停止無視なのですが、自分にも注意義務があるので10:0にはならず、あとは会社の保険屋さんにおまかせ、という話になっています。

お互いけががなかったことは不幸中の幸いでした。
ただ、事故に遭ったその夜と翌日は、今思えば、ぶわーっといろいろなことを考えました。一種の興奮状態だったんじゃないでしょうか。
まず、脳内で事故が起きたときの光景が鮮やかにリプレイされる。延々と、です。

いきなり右から車が来て、肉薄して、当たって、目の前を1回転する。
起きてしまった現実の、あの「取り返しのつかない」感は何なんでしょう。
もう起きなかったことにはできない…という、後悔とはまた違う、独特の感じ。
そのあとふつうに1コマやったのが自分でも驚くくらい、その日は疲れました…


抽象思考の話②

さて抽象思考の話に戻ります。
本の内容を受けて、「学び」とは≪事故や失敗といった具体的なことがらを「薄目で見て」抽象化し、適用範囲の広い教訓を得ること≫なのだな、と思いました。
その抽象思考が人を成長させるのですが、私が事故の後に感じた絶望感は、「自分は抽象化能力が低い」ということへの絶望感でもありました。
私は、人から見ると同じように見えるミスを延々と何度もする傾向にあります。私にとっては、一つ一つ原因が異なる、別の出来事なんですが…それはひとえに抽象化能力が低いせいでしょう。それを≪学習能力の欠如≫と人は呼びます。
仕事のミスでは死にませんが、交通事故では死にかねません。確かに今回、「見通しの悪い交差点での事故」は体験しましたが、これが抽象化できなければ、「サンキュー事故」、「巻き込み事故」、「車線変更時の事故」など、同じような(でも私にとっては一つ一つ異なる)事故を繰り返すでしょう。
事故にかぎらず、あらゆる危険に対して、当てはまります。そのうち死ぬぞ、生きていけないぞ…と思ってしまいました。

ですので、私も頑張って(生存をかけて)≪薄目で見る≫訓練をしてまいりたいと思います☆

最後に。信号のない交差点に進入する際には、細心の注意を払いましょう。。
私はいっそ、しばらくは、信号のない交差点が出現するような住宅街を通らないようにしたいと思います。怖かったので。

以上はねゆきでした

【高校英語参考書】フォレストを使って高校英文法の総復習

どもども。新学期が始まってほっと一息、ブログも久々の更新です。

4月になってここ最近、猛烈に英語を勉強しています。
しかもTOEICとかじゃなくて、高校英語。

訳あって、近日中に、高校英語をかなり高水準に仕上げなければなりません。
文法からしてあらかた忘れているので、いろいろ検討した末、まずは平易そうな参考書を通読して輪郭をつかむことにしました。

何でもいいんですが、とりあえずこれ買ってみました。定番。

総合英語Forest 7th Edition

総合英語Forest 7th Edition


1章が3レベル設定になっていて、レベル1では導入、レベル2では基本知識、レベル3でやや発展的な内容…と徐々に理解を深めていけるのがよいです。
大枠の導入であるレベル1から、やや細かい内容もあるレベル3まで、ストーリー(説明)に一貫性があり、螺旋階段を降りるように、無理なく進んでいけます。
私の場合、3日間くらいで読めました(後半の品詞の講はキツかったですけどね!)。

高校1年で一通り英文法をやったあと、整理のために通読…ということであれば、同じくらいのスピードで読破できるのではないでしょうか。
もちろん高1で、文法初見でも全然使えます。たぶん。


同時並行でこれもやっています。

総合英語Forest(7th Edition)解いてトレーニング

総合英語Forest(7th Edition)解いてトレーニング


やっぱり参考書を読んだだけではだめですよね。「分かったつもり」になっちゃう。
問題をやって知識の使い方を学習&定着、苦手部分は周回。これ暗記科目の鉄則です。

ただこの問題集じだいは、ちょっと簡単すぎるかなー…という感じです。フォレストを読んだ後にこれをやると、8~9割できてしまいます。
ただ「問題集はあえて8割できるものを選んで、知識の確認+できない2割を周回して積む勉強をし、徐々にレベルを上げていくものだ」って何かで読んだ気もします。たしかにスキマ時間用の問題集で、ちんぷんかんぷんのまま進んでも実りがないですよね。
できないものが2割3割しかないなら周回もすぐできるし、いい感じ。勉強のモチベーションも下がらないし。他にもいろいろあってお疲れの頭に叩き込まなきゃいけない高1高2生(と社会人)には特に。

…ただ、勉強って、たまにちょっぴり負荷をかけないと進歩が緩まるんですよねぇ。この問題集はあんまり負荷にはなりません。
バランスが課題ですね。


今日のまとめ
□フォレストは3日で通読する!
□並行で問題集をやって、「分かったつもり」を排除!
□スキマ時間用の問題集(見開きで問題と答えがすぐ確認できるもの)は、あえて8割できるものを選んで、知識の確認+できない2割を周回で定着!

…私は職業柄、効果的な勉強方法について考えたり、人にアドバイスすることも多いんですけれど…そのくせ最近では、自分自身が何かを勉強する機会は減っていたように思います。
自分で試行錯誤をして、勉強法を工夫していくのは楽しいですね!
やっぱり自分自身がちゃんと勉強しないと。自分自身が成長を続けなければ、人に教える資格はないなぁ、と思う今日この頃なのでした。

以上はねゆきでした。

【読書】「ザ・ワーク」/「人間は自分が考えているような人間になる」

最近読んだ本の話をしたいのです。

なぁなぁなんですけれど、してもいいでしょうか(笑)


『ザ・ワーク』

まずはこちら。『ザ・ワーク』です。

ザ・ワーク 人生を変える4つの質問

ザ・ワーク 人生を変える4つの質問

この本の前提は「起きていることはすべて正しい」ということ。
つらさ・苦しさ・悪感情などをもたらすのは、あくまでも現実ではなく、誤った認識・考え方であるとし、「誤った考え」を手放すための方策を述べた本です。

自己啓発書を読んでいると、「起きていることはすべて正しい」「悩みや苦しみなどは、現実そのものではなく現実に対する認識から生まれる」という考え方がたびたび出てきますよね。

たとえば、

「私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。もちろん、肉体的に傷ついたり、経済的な損害を被ったりして、つらい思いをすることもあるだろう。しかしその出来事が、私たちの人格、私たちの基礎をなすアイデンティティまでも傷つけるのを許してはいけない」(『7つの法則』)
「人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。」
(『嫌われる勇気』)

などなど。

言い回しは異なりますが、自分の外側で起こった事象に対して、どう受け止めるか、どのように考えるかは自分の自由である、という考え方です。
実際に起きた出来事(現実)と、それに対して自分がどう受け止めるか(認識・思考)の間には距離があり、我々は自分でどう認識するか選択できる…というような言い方がされるときもありますね。

道路の渋滞ひとつとっても、イライラすればbadな出来事になってしまうけれど、「この機会にゆっくり考えでも整理しよう」と思えればgoodな出来事になる、とか。
あとは、同僚が嫌味だからむかつくんじゃなくて、自分が嫌味と受け止めるから(それだけの劣等感を抱いているから)むかつくんだ、とか。

だから(身もふたもないけど、ざっくり言うと)「気の持ちよう」ですよー、っていうことが、自己啓発書にはよく書いてあります。そんな気がします。

(個人的には、こういう考え方に救われた部分はだいぶあります。上司が怒り散らすのは上司の反応であり、私がそれにどう反応するかは私の自由である…とか。

ただし受け入れることと拒絶することの見極めをしっかりコントロールできないと悪い方向に流れてしまいますが…)

さてそんな類書の山の中で、『ザ・ワーク』の特徴は、
①「起きていること(現実)が正しい。現実と闘う(相反する)思考は誤っている」という考え方を非常に強く打ち出していること
②「誤った考え」を手放すための具体的な方法(自問自答する「4つの質問」と「置き換え」のワーク)を提示していること
でしょうか。

②の「4つの質問」と「置き換え」のワークについては、本を読んでいただくとして…。

たとえば、
「夫はもっとダイエットすべきだ」という考えを持ち、ダイエットしない夫を見ているとイライラする、という奥さんがいたとします。
「夫はダイエットしていない」というのが本当(現実)なので、この本の考えでは「ダイエットすべきだ」という考えは「本当ではない」。
また、「夫はダイエットすべきだ」と考えないようにすれば、どんな利益があるか(イライラしないで済む)考えれば、おのずと夫にダイエットを強要する考えを手放す結論に至る…
とまぁ、こんな感じのことが書いてありました。

と、ここまで書くと、まるで私がオススメしているみたいですけれど、別にオススメしてません。こんなことが書いてあったよ、という紹介です。
逆に途中でいやになっちゃって、読むのをやめてしまったくらいです←


ざっくり言うと、この本の主張は「現実と相克する考え(たとえば、言うことを聞かない子どもに対して「言うことを聞くべきだ」と考える、など)を抱いても、
悪いことばかりで利益もないし意味ないので、手放しましょう」ということです。
確かに超合理的な考え方ですけれど、人間てもう少しウェットなものだと思いません?そんなに常に、利益と目的に対して最短距離で進むものですかね?

前提を覆す発言になりますけれど、「利益にならず、むしろ害悪になって、意味のないもの」はすべて、捨ててしまっていいものなんでしょうか。

自分に関して言えば、「そんなこと考えたって意味がない」って切り捨てていくのは、仕事の面だけで十分で、より個人的な面では、弱くて、ぐちゃぐちゃして、邪悪で、混乱した、意味のないものを、何だかんだで結局愛しているような気がしてなりません。

それが自分を人間たらしめているのであって、利益にならないとか、意味がないとか、そんな理由で取捨選択をしていくことは、人間味に欠けるような気がしてしまうのですが…
そうか、みんな人間ではなく機械を目指しているのかもしれませんね。コミュニケーション・マシーン。make the world better。

…まぁ全然支離滅裂で反論になっておりません。おそらく個人の性格の問題なのでしょう。
とにかく私はこの本が好きではありませんでした。

 

『人間は自分が考えているような人間になる』

次に読んだのはこちら。

この本は、その題名の通り、「思考が現実になる」という考え方を前提にしていて、これも自己啓発書に多く見られる考え方です。
引き寄せの法則、とか、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」とか、そうですよね。

この本には「人間は自分が考えているような人間になる」とか、「人間は人の役に立つために生きている」とか、「報酬は人に奉仕した代償である」とか、名言がたくさんちりばめられています。

受け入れがたい現実に対し折り合いをつけるというよりは果敢に立ち向かっていくための教えであり、どちらかというと『ザ・ワーク』よりもやる気の出る内容ではありました。

かといってこの本も別にオススメではありません←

翻訳もの(made in America)の自己啓発書に多く見られる欠点なんですが、冗長っていうか、経歴自慢が長いっていうか…。

あと、勝手に一部分を太字にするのをやめてほしいですよね。なんかねー、私だけかもしれないですが、「ほっとけ」って思っちゃいますね。

***

さて今日は結局、「別にオススメじゃないけど、最近読んだ本について」というなぁなぁな記事になってしまいました。
それにしても、オススメ本と同じくらい、「納得できない本」について語りたくなってしまうのは私だけでしょうか。
しかも知人(あまり読書しない)に「面白くてオススメの本の話」は世間話としてかろうじてできても、「面白くなかった納得いかない本の話」はさすがにできないので、この「話したさ」は出口を求めて右往左往するのでありました。

よくよく考えれば、さっきの本では「現実が正しく、現実と相克する思考は正しくない」と言っていて、こっちの本では「思考が現実のものになる」「思考によって運命を切り開いていく」と言っていて、いろんな考え方があって面白いですね。

とにかく人間は、受け入れがたい現実に対してどのように振る舞うかを、有史以来延々と模索してきたわけですよね。
自己啓発書・ビジネス書はいろんな人生観・世界観を直接的に教えてくれるところが面白いです。


以上はねゆきでした。

【読書】宮下奈都『羊と鋼の森』

宮下奈都『羊と鋼の森』を読みました。
新人ピアノ調律師が、失敗しながらも少しずつ成長していく話です。

羊と鋼の森

羊と鋼の森

帯に「村上春樹のドライさと湿り気。小川洋子の明るさと不穏、二人の先行作家の魅力を併せ持った作品です」と語られていましたが、うーん、よく分かりませんでした。
確かにピアノの音色に関する情景描写がたくさん出てきて、その表現の豊かさはこの小説の魅力のひとつでありましょう。

秋の、夜、だった時間帯が、だんだん狭く限られていく。(中略)
町の六時は明るいけれど、山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。夜になるのを待って活動を始める山の生きものたちが、すぐその辺りで息を潜めている気配がある。静かで、あたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノから零れてくる。

こんな感じの。
けど個人的には、この小説の最大の魅力は、
「地道な努力をこつこつ続けながら、自分の目指す音色・調律のあり方を探っていく新人調律師の姿」であり、
「調律師としてなかなか思うような結果が出せない中、才能や努力の意味に思いをめぐらしながら、成長していく青年の姿」だと思うのです。

つまり私は、「お仕事小説」として読みました。
たとえばこんな。

「調律って、どうすればうまくなるんでしょう」
ひとりごとだった。席に戻りながら、思わず口に出ていたらしい。
「まず、一万時間だって」
その声にふりむくと、北川さんが僕を見ていた。
「そんなことでも一万時間かければ形になるらしいから。悩むなら、一万時間かけてから悩めばいいの。」

 

「口にしないだけで、みんなわかってるよ。だけどさ、才能とか、素質とか、考えないよな。考えたってしかたがないんだから。」
ひと呼吸おいて、秋野さんは続けた。
「ただ、やるだけ」
ぞくっとした。秋野さんでさえ、そうなのか。
「才能がなくたって生きていけるんだよ。だけど、どこかで信じてるんだ。一万時間を越えても見えなかった何かが、二万時間をかければ見えるかもしれない。早くに見えることよりも、高く大きく見えることのほうが大事なんじゃないか。」


才能とか、素質とか、考えない。ただ、やるだけ。
才能がなくたって生きていける。一万時間を越えても見えなかった何かが、二万時間をかければ見えるかもしれない。

個人的には、こういう言葉に心を動かされました。
才能とか、素質とか、考えてしまうのはまだ甘いのかもしれません。ただやるだけ。欲しければ求めるだけ、ですから。

好きだとか気持ちがいいだとか、自分の中だけのちっぽけな基準はいつか変わっていくだろう。あのとき、高校の体育館で板鳥さんのピアノの調律を目にして、欲しかったのはこれだと一瞬にしてわかった。わかりたいけれど無理だろう、などと悠長に考えるようなものはどうでもよかった。それは望みですらない。わからないものに理屈をつけて自分を納得させることがばかばかしくなった。
「あきらめないと思います」
声に出さずにつぶやく。あきらめる理由がない。要るものと、要らないものが、はっきり見えている。

 

***

最近、さる教育評論家の講演を聞く機会があったのですが、そのときに彼女が、

「子どもは親の時間を吸って育つ」「私は子どもに自分の時間をすべて吸わせました」

と言ってて。
そうなんだ、すごいな、でも私にはまねできない、そもそも子どもをもつことが想像できない…などと勝手に思っていたら、
一緒に聞いていた上司に案の定「お前は(結婚や子どもは得られないだろうから)仕事にすべての時間を吸わせたら?」と言われて(よく考えたら部下に言うことではまったくありませんが、もちろん、冗談でありましょう)ちょうど考えていた折も折です。

 

 

子どもに時間を吸わせれば、子どもは育つ。ある意味形あるものが世界に残る、それはそれで充実感の得られることだろう。
でも仕事に時間を吸わせたとして、私に何が残る?

 

そんなことを考えていたところなので、一万時間の話や、要るもの要らないもの、の話がアンテナに引っかかったのだと思います。

まぁ、その「仕事にすべての時間を吸わせる」決心もつかない時点で、本当は自分にとってどうでもよいものなのでしょう。
だからこそこんなに適当に為される。
自分のすべての時間を迷いなく、ためらいなく吸わせる対象を高校生にして見つけた主人公がうらやましく、自分もそうなれたら…と思いながら読んでいた、と思います。


ちなみに、「仕事に自分のすべての時間を吸わせて、何が残るのでしょうか」と当該上司に伺ったところ(よく考えたら上司に聞くことではまったくありませんが、もちろん、冗談であります)
「結局津波が来たら全部流されて、生き様しか残らないんだよ。人生で残せるものは生き様だけ」
と申しておりました。
…だんだんブログが彼の名言録と化しつつありますね(笑)

 

以上はねゆきでした。

【雑記】受け止めること

俺の言葉を、気持ちを、余計な言葉を入れずに受け止めろ

さて上の唐突な引用は一体何かと言いますと、実は「昨日の上司の説教を一言で要約すると」コーナーなのでした(誰得)。

ともかく、叱責の間じゅう、「受け止める」ということについて思いを馳せておりました。だから今日は「受け止める」ことについて書きます。

***
最近「受け止める」という言葉が私の上司の中で流行っております。
それにしても「俺の言葉を受け止めろ」という人は、一体実際何をすることを求めているんでしょう。私はそれが分からない。
返事?謝罪?命令への服従?心の入れ替え?

…かといって「あの、受け止める、とは…?」って質問したらそれは「余計なこと」に含まれてしまうよなぁ。余計な言葉を入れず、だもんなぁ…お、私にしてはナイス判断!
などと考えていて、叱責を承りつつも上の空、不自然に黙っていたせいか、後半は「バカじゃないの!」「お前みたいなやつは見たことないよ!」と口を極めて罵られました。ちゃんちゃん。

***
さて。落ち込んだてい(!)で、もう少し考えます。
たとえば「お前はバカだ」を「受け入れる」ことは「はい、私はバカです」と口で言うことを意味するのでしょうか。それとも心からそう思うことなのでしょうか。
「ああ、本当に私はバカだな…」とか?

そう考えていくと、「はい、私はバカです」と口で言うことはできるけど、たぶん「自分はバカだと、心から思う」ことは、「お前はバカだ」と言われた程度では出来ないだろうなぁ、と思うんですよね。
これは信念の問題です。

おそらくうちの上司は、職業柄、「自分の言葉で働きかけて、他人を成長させる(=人格・思考回路・行動を変容させる)」という信念が強いのだと思われます。
私はどちらかというと、こんな稼業のくせに、そして若いわりには、「人間は変わることができない」と諦めている節があって、自分自身の人格形成からして完全に放棄しているので、そのことが人をいらいらさせるのでしょう。

現実的には、すぐに変えられることと、やはり変えられないことがあるのだと思います。
私は変えられないことを多く見積りすぎている。一方上司は変えられることをかなり多く見積っている…他人の心の中までも。

神よ願わくば私に
変えられないことを受け入れる落ち着きと
変えられることを変える勇気と
その2つを常に見分ける知恵とをお授けください
スローターハウス5

確かに言動は変えられるし、会社組織で働く以上、そこに最適化するよう言われるのは妥当な指摘だと思います。
でも心の中で思っていることまではなかなかね…
そもそも自分を変えたとして、周りにそれを認めるつもりはあるのか。私が相手の思い通りに変容したら、相手は勝ち誇るのではないか(それは悔しい)などなど。

変えられないことを受け入れる落ち着き、変えられることを変える勇気、その2つを常に見分ける知恵は依然として課題だな、と思いました。
こんな言葉でシメたいと思います。

「問題を自分のこととして受け止めて、自分が変わらなければ、状況は変わらない」

誰の名言かって?
うちの上司…(誰得)
私はこれでけっこう上司が好きです。なのに怒られるのでかなしい。

以上はねゆきでした。